南田洋子の結婚した夫は長門裕之で子供はいる?死因・晩年や学歴・経歴

映画『太陽の季節』で主演を務めたことで知られる南田洋子さんの経歴や学歴は?

女優デビューしたきっかけは?

夫は俳優の長門裕之さんでおしどり夫婦と言われましたが、子供は?

死因や晩年は?

今回は女優の南田洋子さんをリサーチしてみました。

南田洋子の学歴・生い立ち・経歴

名前   南田洋子
生年月日 1933年3月1日
没年月日 2009年10月21日(76歳没)
出身   東京都港区三田
身長   155cm
血液型  A型

父親、母親、兄、弟の5人家族。本名は北田 洋子(きただ ようこ)。
父親は米穀商で商店も経営、母親は日本舞踊の師匠でした。

小学校は赤羽国民学校(現・北区立赤羽小学校)に入学。
戦時中は栃木県の塩原温泉に学童疎開していました。

終戦後は実家が空襲で焼けてしまったことから、茨城県土浦市に移住し、土浦第一高等女学校に入学。

土浦第一高等女学校は現在の現在のつくば国際大学高校。
茨城県土浦市真鍋にある私立高校です。
旧制の高等女学校は5年制で、現在の中学校、高校を兼ねている形でした。

高校卒業後は上京し、専門学校の文化学院に入学。
文化学院は東京都墨田区両国二丁目にあった美術、演劇、音楽、建築などを学べた専門学校でしたが2018年に閉校。

南田さん高校の時から建築関係の仕事に就きたいと思っていて建築を勉強していました。

文化学院を卒業後は、女優の道に進みました。

南田洋子が女優デビューしたきっかけは?

南田さんは専門学校で建築を学びながら、歌舞伎座にも頻繁に通うようになり、そんな南田さんに目を留めた支配に、女優の初代・水谷八重子さんを紹介され、付き人として弟子入り。

下働きをしていましたが、当初は女優になるつもりはなく芸能界のしきたりにも驚きましたが、文化学院在学中の1951年にアルバイトの延長のつもりで大映5期のニューフェイスのオーディションを受けると合格し、大映に入社。

同期には若尾文子さんがいました。

南田洋子と長門裕之の馴れ初めは『太陽の季節』

1952年、19歳の時に映画『美女と盗賊』の端役で女優デビュー。

同年に本名の『北田』が寒そうなので芸名を『南田』としました。

デビュー翌年の1953年に若尾文子さんを共演し、思春期の性を描いた映画『十代の性典』でが大ヒット。若尾さんとのコンビでシリーズ化され『続十代の性典』、『続々十代の性典』、『十代の誘惑』が公開され、一躍人気女優となり、1954年には南田さん単独の主演作『十代の秘密』が公開されました。

1955年に大映から日活に移籍し、翌年の1956年に映画『太陽の季節』で長門裕之さんと共に主演を務め大ヒット。

この映画きっかけで南田さんと長門さんは交際をスタートさせ、2年の同棲生活を経て、1961年3月に結婚しました。

結婚後も女優業を続け、1963年には映画『サムライの子』で、

第14回ブルーリボン賞・助演女優賞

を受賞。

1964年には長門さんと共に『人間プロダクション』を設立し、若手俳優を育てながら、ドラマ制作のも乗り出し、自身たちもテレビドラマにも活動をの場を広げ、1964年のNHKドラマ『横堀川』で長門さんと夫婦で主演。
1970年ののNHK連続テレビ小説『虹』ではヒロインを務めました。

南田洋子に子供はいる?

南田洋子さんさんと長門裕之さんに子供はいませんでした。

『妻を妊娠させて番組を休ませるなんてことは考えられなかった』

おしどり夫婦と呼ばれ夫婦での共演も多く、1969年4月から『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会を夫婦で務め、1981年9月まで12年間出演しました。

そのため、仕事を優先してあえて子供は作らなかったと長門さんは述べています。

南田洋子の死因と晩年

南田洋子さんは2004年に認知症を発症し、専門医にはアルツハイマーと診断されていました。

その後、台詞が覚えられたいほど病状が悪化し、2006年に発表することなく引退。

2008年に女性誌などで南田さんの認知症が報道され、同年に長門さんは『徹子の部屋』で、南田さんの認知症を初めて明かしました。

同年11月には『報道発 ドキュメンタリ宣言』(テレビ朝日)で、2人の闘病の模様が放送され反響を呼びました。

2009年10月17日に自宅で倒れ病院に搬送され、入院。意識の戻らないまま4日後の10月21日に76歳で他界。

死因はクモ膜下出血でした。

遺作は2007年8月18日公開の映画『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』でした。

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