浅香唯の旦那の西川貴博や子供、若い頃や現在、高校など学歴や経歴

80年代にアイドルとして活躍した浅香唯さん。

結婚しているようですが、旦那の西川貴博さんとはどんな方なんでしょう?

馴れ初めや子供は?

浅香唯さんの若い頃や現在の活動は?

今回は浅香唯さんをリサーチしてみました。

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浅香唯の旦那の西川貴博とは?

浅香唯さんは2002年7月に結婚。

旦那はドラマーの西川貴博さん。

西川貴博さんは1963年6月生まれで、浅香唯さんの6歳年上。

浅香唯さんが33歳の時の結婚でした。

西川貴博さんは『THE KIDS』というバンドでドラマーとして活動しており2020年現在もライブハウスでライブを行っているようです。

浅香唯さんと旦那の西川貴博さんの出会い・馴れ初めは浅香唯さんのコンサートで西川貴博さんがバックバンドを務めたこと。

交際は浅香唯が18歳の頃からで、ゲームが共通の趣味だったをきっかけに交際に発展したそうです。

スーパーマリオの『100UPマリオ』を西川貴博さんがやったことが交際のきっかけだったそうで、

『それまでは大して好きでもなかったのに、ものすごく好きになって私からお付き合いしてくださいって言いました。デートもゲームセンターだった』

引用 https://www.sponichi.co.jp/

と話しています。

1988年、交際1年目の頃、写真週刊誌の報道で交際が発覚。

釈明会見で浅香唯さんは交際宣言をしました。

交際発覚で特に人気が落ちることはなかったようで、交際宣言の翌年の1989年1月に発売したシングル『TRUE LOVE』がオリコン1位になっています。

旦那の西川貴博さんは浅香唯さんの初めて交際した相手で、交際期間は15年。

その間に、浅香唯さんは5回プロポーズされ、5回断ったそうです。

『結婚するならあなただけれど、今ではないです』

と断っていたそうです。

最後は浅香唯さんからプロポーズし結婚したそうです。

浅香唯の子供

浅香唯さんの子供は娘がひとり。

結婚5年目の2007年9月に誕生しました。

名前は陽舞莉(ひまり)さん

浅香唯さんは娘とイベントなどで共演の経験があるようです。

浅香唯の若い頃と現在

浅香唯さんの若い頃の画像。

浅香唯さんは出産後は産休をとっていたようですが、現在は主にタレントとして活動しているようです。

浅香唯さんのホームページのスケジュールを見てみると、バラエティ番組のゲスト出演がが中心のようです。

浅香唯の高校などの学歴や経歴

浅香唯さんは1969年12月4日生まれ。

宮崎県宮崎市生まれ。

出生名は川崎亜紀。

両親は共に公務員。

兄弟は兄がひとり。

実家の近くは自然が多く自然の中でのびのびと育ったといいます。

子供の頃は兄の後をついて一緒に遊んでいたそうで、女の子がするようなままごと遊びとか、折り紙とかは一切したことがないそうです。

浅香唯さんは小学校から受験し、

宮崎大学教育学部附属小学校に合格。

中学も宮崎大学教育学部附属中学校に進学しています。

宮崎大学教育学部附属中学は進学校で、元フジテレビアナウンサーの河野景子さんや、俳優の堺雅人さんも卒業生です。

浅香唯さんは中学時代、バトミントン部と水泳部に所属。

バトミントン部では主将を務め、水泳部では中学2年の時、平泳ぎで宮崎市の大会で、当時の新記録で優勝しています。

高校は芸能界入りしたため、明治大学付属中野高校の定時制に進学しました。

1984年、中学時代に漫画雑誌『少女コミック』の漫画『シューティングスター』のイメージガールのコンテスト、『ザ・スカウトオーディション’84』に応募し、16000人の中から、

『浅香唯賞』

を受賞。

浅香唯は漫画『シューティングスター』のヒロインの名前です。

受賞した浅香唯さんですが、芸能界自体には無縁で憧れもなかったそうです。

応募した理由は、副賞の赤いステレオが欲しかっからだったといいます。

オーディションはグランプリ、準グランプリと浅香唯賞があり、浅香唯賞の副賞が赤いステレオだったそうです。

そのため、応募要項もよく読んでおらず、歌や演技が必要だということも知らず、最初のオーデションでは、審査員に『お芝居をしてください』、『歌ってください』と言われても亜『できません』と言ったそうです。

審査員には『何をしに来たんだ』と言われ、浅香唯さんは素直に『赤いステレオが欲しくて…』といったといいます。

他の応募者がアイドルになりたい、歌手になりたいという子ばかりの中、『ステレオが欲しいから』という理由は逆に新鮮だったようで、浅香唯さんは九州大会、東京の本選に進み、本選でも『ステレオが欲しくて』と正直にいい希望通りの『浅香唯賞』を受賞。

浅香唯 アイドルデビュー

最初は浅香唯さんは芸能界に入るつもりななかったそうですが、スカウトが殺到。

話を聞き、芸能界入りを決意し1985年3月、中学の卒業式の日に上京しました。

公務員だった両親は芸能界入りに大反対したそうですすが、それを押し切っての上京だったようです。

上京した翌日にはTBS系の生放送番組「EXPOスクランブル」のレギュラーアシスタントとして出演。

浅香唯さんは緊張で番組ではマイクを持ったまま、全く喋れなかったそうです。

同年6月、『夏少女』で歌手デビュー。

翌年の1986年9月までに5真にのシングルをリリースしますが、オリコン最高88位とヒットしませんでした。

浅香唯さんは上京したてで、宮崎なまりが強く、なまりを治す校に行ったそうですが、学校から事務所に、

『ご本人はなまりを治す気がありますか?』

と聞かれるほど治らなかったそうです。

なまりのためオーディションに落ち続ける日々でしたが、1986年10月、フジテレビ系のドラマ「スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇」のオーデションで、『いいなまりだ』と言われ合格し、主役の3代目麻宮サキ役として出演。

3代目の麻宮サキは九州弁での台詞でした。

ドラマは最高視聴率21.3%。。

『スケバン刑事』『スケバン刑事II』よりも高い視聴率を記録しました。

1987年9月に発売した8枚目のシングル『虹のDreamer』で自身初のオリコン1位を獲得。

1988年4月、10枚目のシングル『C-Girl』は『カネボウ’88夏のプロモーション』のイメージソングに起用され自身最大のヒット曲となりトップアイドルとして活躍。

浅香唯 休業と復帰

1993年2月、23歳の時、事務所とレコード会社の契約切れるのを機に、契約を延長せず退社。

『自分を見つめ直し、音楽活動の幅を広げるための勉強をしたい』

という理由で休業に入りました。

休業期間は約4年半。

休業に入ってから、自分が知らないことが多かったことに気付いたといいます。

それまで、浅香唯さんはATMでお金を引き出したこともなく、水道料金や電気代がかかることも改めて気付いたそうです。

自身で曲を作りレコーディングし、レコード会社に持っていったこともあったそうです。

当時、浅香唯さんはアポを取ることを知らず、受付で

『アポはとられましたか?』

と聞かれ、そこでアポの意味を知ったといいます。

1997年8月、個人事務所を設立し『YUI』名義で音楽活動を再開。

浅香唯さんは音楽活動では『YUI』、その他の仕事では『浅香唯』と使い分けをしたかったそうですが、どこにいっても『浅香唯』として見られることから芸名を『浅香唯』に戻したといいます。

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