冨士眞奈美さんは静岡県出身の女優。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫は?
子供は娘?
今回は女優の冨士眞奈美さんをリサーチしてみました。
冨士眞奈美の学歴・生い立ち・経歴
名前 冨士眞奈美
生年月日 1938年1月15日
出身 静岡県
身長 154cm
所属 アンテーヌ
高校・三島北高校
大学・進学していません
静岡県三島市出身。
6歳までは東京で育ち、18歳まで三島市で生活しました。
父親は新聞記者。
母親は専業主婦。
幼い頃は男の子と一緒に野球などをする一方、読書も大好きだったといいます。
ラジオも当時は珍しい時代でしたが家には父親が自作した真空管ラジオがあり、ラジオから声が聞こえるのが不思議だったそうです。
テレビもない時代だったので本をむさぼるように読んでいて、小学5年のときに読んで夢中になったのが、社会派作家といわれた石川達三さんの『転落の詩集』。
家には読み切れないほど本があり、毎日夢中で小説を読んでいたといいます。
中学2年生の時には音楽の授業で蓄音機で聞いたオペラに衝撃を受け、オペラが好きになりました。
高校は三島北高校を卒業。
三島北高校は静岡県三島市文教町にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は63。
高校では音楽部に所属。
高校の文化祭でオペラの舞台に出たり、裏の畑でオペラを歌ったりしていたそうです。
冨士眞奈美が女優になったきっかけは?
高校3年生の時に『アンネの日記』を読んですごく感動し、ちょうどその頃に新聞でアンネの日記を劇団民藝が公演の主演を募集している広告を見つけたそうです。
アンネ役に興味を持ち、姉に相談したところ、姉が『劇団民藝』の応募。
芝居の経験は全くありませんでしたが、最後の6人に残り、1週間東京に泊まって『民藝』の先生の指導を受けました。
しかし、アンネ役には選ばれませんでした。
選ばれたのは鎌倉の女性で、憧れるぐらいキレイな人で冨士眞奈美さんはファンレターを出したんだとか。
『しかし当時、女優になろうと考えたことはなかったという。』
引用 https://www.bs-asahi.co.jp/
高校卒業後は藤沢でミニコミ誌を出していた父親の友人に、
『何もすることがないんだったら、記者になりなさい』
と言われ記者を目指しました。
そこでの仕事はすごく楽しく文章を書く楽しさを覚え、自分は物書きになるものだと思っていたいといいます。
そんなある日、NHKのドラマのオーディションのハガキが届きました。
『民藝』のオーディションを受けた時に印象に残りNHKに推薦してくれたそうです。
オーディションでは『趣味・オペラ』と書いていたので審査委員に『君、オペラを歌えるの?』と聞かれ『蝶々夫人』を歌い合格しました。
冨士眞奈美 女優デビュー後
1956年11月、NHKのドラマ『この瞳』の主役に抜擢されて女優デビュー。
当時18歳でした。
1957年、NHK専属の第一号となり、1959年3月から放送されたドラマ『輪唱』の三姉妹役で共演した馬渕晴子・さん、小林千登勢さんとNHK三人娘と呼ばれて人気を博しました。
1960年6月からはフジテレビ系の音楽バラエティ番組『東は東』の司会を滝田裕介さんと務めるなど、20代の頃からテレビドラマとバラエティーのレギュラーでも活躍。
1970年1月から放送された日本テレビ系ドラマ『細うで繁盛記』では牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ静岡弁のヒステリックで意地悪な小姑役が当たり役となりました。
以降は意地な役が多くなったそうです。
冨士眞奈美の結婚歴や夫は?
冨士眞奈美さんが結婚したのは1974年。
36歳の時でした。
夫は脚本家の林秀彦さん。
年齢は4歳年上。
冨士眞奈美さんは初婚ですが、林秀彦さんは再婚でした。
冨士眞奈美さんは先輩女優の山岡久乃さんの、
『女性は子どもを持つか持たないか、ちゃんと考えたほうがいい』
との忠告でにわかに結婚を意識したそうで、その頃、身近にいた相手と結婚したといいます。
後に結婚したことについて、
『当時は、「最終バスに乗らなきゃ」って思ったのね。慌ててバスに駆け込まず、悠々と歩いていれば、違った出会いがあったかもしれないのに』
と話しています。
結婚を期に女優業は一時引退。
仕事はCM出演やエッセイなどの執筆活動などにとどめていました。
離婚したのは1984年。
結婚生活は10年でした。
離婚後、再婚はしていません。
冨士眞奈美の子供は娘
冨士眞奈美さんの子供は1人。
子供は娘です。
1976年に1月に長女の岩崎リズさんが誕生しました。
出産した時、冨士眞奈美さんをは37歳でした。
岩崎リズさんは女子美術短期大学造形科彫塑専攻を卒業後、日本脚本家連盟ライターズスクールにてシナリオを学び、テレビドラマの企画に関わり、脚本家として活動をています。
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