萩原健一の結婚歴は4度で妻、子供は?逮捕歴や死因、学歴や経歴

グループサウンズ『ザ・テンプターズ』のボーカルとしてデビューした萩原健一さんの経歴や学歴は?

デビューのきっかけは?

結婚歴は4度、離婚歴は3度で妻、子供や死因は?

今回は俳優の萩原健一さんをリサーチしてみました。

萩原健一の学歴・生い立ち・経歴

名前   萩原健一
生年月日 1950年7月26日
没年月日 2019年3月26日(68歳没)
出身   埼玉県北足立郡与野町(現・さいたま市中央区)出身。
身長   174cm
血液型  O型
所属   KR株式会社

父親、母親、2人の兄、2人の姉の7人家族。

実家は魚屋、母親は再婚で4人の兄姉とは父親は違、兄姉の父親は戦争で亡くなっています。

小学校は与野町立上落合小学校(現在はさいたま市立)を卒業。(現在はさいたま市立)

幼少期から兄姉の影響で、音楽や映画が好きで、石原裕次郎さんのファン。

映画にはよく連れて行ってもらったといいます。

名前は「敬三」ですが、子供の頃からニックネームは「ケンちゃん」だったそうです。

中学校は聖橋中学校、高校は聖橋高校を卒業。

聖橋中校・高校は、かつて東京都荒川区尾久町にあった私立学校。

1948年に開校し、1971年に廃校になっています。

中学から不良グループの一員で、グループにケンがつく仲間の2人いて身長が大きい順でダイケン、チュウケンと呼ばれ、一番小さかった萩原さんは『ショーケン』と呼ばれ、デビュー後もニックネームはショーケンでした。

中学時代にバンド活動を始め、高校在学中にデビューし、高校は2年で中退しています。

萩原健一のデビューのきっかけは?

中学時代に不良仲間と埼玉駅前のダンスホールでクローク係のアルバイトをしていた時、パーティーで演奏していたバンド『ザ・テンプターズ』の女性ボーカルが腹痛で出演できなくなり、歌なしで演奏していたところ会場からブーイングが起こり、バンドのリーダーがクローク係だった萩原さんたち中学生も変わりに歌うように要請。

不良仲間の番長に「ショーケン、おまえが歌え!」と当然指名され、人前で歌ったことはなかったため戸惑いましたが萩原さんは引き受け、歌ってみると大喝采となり歓声と拍手を受けたといいます。

その後、正式にボーカルとして加入し、ザ・スパイダースの田辺昭知さんにスカウトされ、ザ・スパイダースの弟分バンドとしてデビューしました。

太陽にほえろ!でブレイク

『ザ・テンプターズ』として、1967年10月に『忘れ得ぬ君』でデビュー。

翌年の1968年3月の2枚目のシングル『神様お願い!』がオリコンチャート2位、3枚目の『エメラルドの伝説』は1位となり、その後もあヒット曲を連発しアイドル的人気をとなりましたが、グループサウンズブームの終演とともに低迷し、1970年に解散。

解散後はソロ歌手、俳優として活動し、1972年からは刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)に 初代新人刑事の早見淳・マカロニ 役で出演。

マカロニ刑事は人気となり、俳優としてブレイクし、1974年には探偵ドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ)に主演を務めました。

1977年には映画『八つ墓村』で主演を務め、1980年には黒澤明監督映画『影武者』に出演。

1982年公開の『誘拐報道』では、

第6回日本アカデミー賞・優秀主演男優賞

を受賞しました。

1984年3月に大麻不法所持にて逮捕されて以降、人身事故なども起こし、芸能活動の休止、再開を繰り返しました。

歌手としては1987年に『愚か者よ』がヒットしてます。

萩原健一の逮捕歴

萩原健一さんの逮捕歴は4回。

最初の逮捕は1983年4月に大麻不法所持で、懲役1年(執行猶予3年)の判決を受けました。

1年間の芸能活動を休止し、翌年の1984年にはは飲酒運転でオートバイをはねる人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕。

1985年11月には当時プロレスラーのアントニオ猪木さんの妻だった女優の倍賞美津子さんとの熱愛写真を『FRIDAY』に報道されて激怒し、編集者とカメラマンに暴行。

逮捕はされませんでしたが、傷害罪で書類送検されました。

3度目の逮捕は2004年10月、横浜市内で人身事故を起こし、業務上過失致傷罪で現行犯逮捕さました。

4度目はの逮捕は恐喝未遂。

主演を務めるはずだった映画『透光の樹』の撮影中にスタッフや共演者に暴言・暴行を繰り返したとして降板させられ、前払いした出演料をの返還を要求されましたが拒否。

その後、プロデューサーの携帯の留守電に、実在する暴力団や暴力団関係者の名前をチラつかせながら出演料の全額支払いを要求。

プロデューサーが留守電を警察にに証拠として提出し、声紋鑑定などを行った結果、本人と確認されたために恐喝未遂で逮捕。

映画『透光の樹』の代役は永島敏行さんが務めした。

萩原さんは活動休止後、2008年に芸能活動を再開しています。

萩原健一の結婚歴は4度で妻、子供は?

萩原健一さんの結婚歴は4度。

最初の結婚は1975年4月、25歳の時にモデルの小泉一十三さんと結婚。

娘が誕生しましたが、1978年3月に離婚。結婚生活は3年でした。

再婚したのは離婚から2年後の1980年5月、妻は歌手で女優のいしだあゆみさん。

萩原さんは結婚3年目の1983年3月に大麻所持で逮捕されましたが、いしださんは

『他人さまからどんなにバカな男と言われても彼は私の夫です。見捨てることはできません』

と萩原さんをかばい、離婚についても否定しましたが、翌年の1984年2月に飲酒運転で人身事故を起こすと、

『何も言うことはありません。もう、あきれました』

とコメントし、翌月の3月に離婚。4年の結婚生活に終止符を打ちました。

3度目の結婚は1996年5月、相手はヘアメイク・アーティストの島田由紀さん。

結婚10年目2006年3月に離婚調停の末に離婚しました。

4度目の結婚は2011年2月、60歳の時でした。

妻は12歳年下でモデルの冨田リカさん。

2009年に女性月刊誌「美STORY」の対談で出会い、冨田さんから

『すてきなお友達になっていただけますか?』

とアプローチしたといいます。

冨田さんは出会った時は既婚者で、離婚後に交際がスタートしたと報じられています。

子供は最初の妻との娘1人だけのようです。

萩原健一の死因は?

萩原健一さんは2019年3月26日にGIST(消化管間質腫瘍)のため死去。68歳でした。

死因のGIST(消化管間質腫瘍)は、発病は10万人に1人ともいわれる悪性腫瘍です。

2011年から患っていましたが、妻以外には重い病気であることを伝えていなかったことから、亡くなった時は驚きをもって受け止められました。

遺作は2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の高橋是清 役でした。

没後に放送されましたが、生前にほぼ収録を終えていて、放送に支障はなかったといいます。

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