小林稔侍さんは和歌山県出身。
生い立ち、経歴や高校などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚しているようですが妻は?
子供は息子と娘で俳優?
今回は俳優の小林稔侍さんについてリサーチしてみました。
小林稔侍の学歴・生い立ち・経歴
名前 小林稔侍
生年月日 1941年2月7日
出身 和歌山県
身長 180cm
所属 鈍牛倶楽部
小学校・かつらぎ町立笠田小学校
中学校・和歌山大学教育学部附属中学校
高校・笠田高校
大学・進学していません
和歌山県伊都郡かつらぎ町出身。
本名は小林稔侍(こばやし としじ)
父親は洋服の仕立て職人。
性格は短気でお人よし。
母親は何事にもきちんとした性格だったといいます。
兄弟は10歳年上の兄。
育った故郷は農業以外何の産業もない所だったそうです。
小林稔侍さんの最初の記憶は『空襲』だといいます。
4歳の頃にサイレンが鳴り防空壕に放り込まれ、機銃掃射が撃ち込まれたそうです。
『稔侍な、アメリカに負けても、ご飯は1日に3食食べさせてくれるけど、ソ連が攻めてきたら1日にパン1つしか食べられへんよ』
母親にそう言われたことは忘れられないといいます。
幼少期は虚弱体質で小児喘息持ち。
身体は痩せ細っていたそうです。
小学校はかつらぎ町立笠田小学校、中学校は和歌山大学教育学部附属中学校を卒業。
小学生の時には体調を崩して1年間休学。
『あのな、和歌山大学(学芸学部)附属中学に通う女の子はかわいいらしいで』
小林稔侍さんは友達のこんな耳打ちから中学受験を決意。
『人生でいちばん勉強した』というほど猛勉強し見事に合格。
将来は医者になって両親に楽をさせることを夢見ていました。
高校は笠田高校を卒業。
笠田高校は和歌山県伊都郡かつらぎ町笠田東にある男女共学の県立高校。
普通科、総合ビジネス科、情報処理科があり、現在の偏差値は普通科49、総合ビジネス科46、情報処理科46。
高校時代にも小学校同様に体調を崩し1年間休学しています。
高校卒業後は東京の大学進学をしようと受験の準備をしましたが、結局は大学には進学せずに俳優を目指しました。
小林稔侍が俳優になったきっかけは?
小林稔侍さんは中学受験に合格し、医者になることを夢見ていましたが、その夢が変わったのは高校卒業目前のことでした。
体調を崩し小学校に続き、高校でも1年休学。
高校の時には病気のことで心配をかけた両親に家を早く建ててやりたいという思いが強くなったそうです。
当時は借家住まいで母親が大家さんに気を遣っている姿を見ていたといいます。
大学受験の願書を書いていた時、新聞で『東映ニューフェイス募集』見つけ、地元の映画館でよく映画を見て高倉健さんの大ファンだった小林稔侍さんは、
『役者になればすぐにお金が入り、親に家を買ってあげられる!』
と応募。
応募者は全国で約2万4000人でしたが、書類選考や各審査を次々突破。
最終面接は大学受験日と重なりましたが、面接を優先し合格。
高校卒業後はと東映に入社しました。
小林稔侍 下積み時代
1961年4月、東映ニューフェイス10期生として入社。
研修は俳優座で行われ、『ざじずぜぞ』が『だじづでど』になってしまうクセをがあり、方言を直すのに苦労したといいます。
研修の最後に10期生が総出演するドラマを撮影。
『まるでじゃがいもみたいにあか抜けていないし、話す声もバカっぽい。』
引用 https://www.jprime.jp/
小林稔侍さんは撮影したドラマのそんな自分を見てショックで数日寝込んだといいます。
その後、立ち直ると腹をくくり『苦労は必ず報われる』とかたくなに信じ、大部屋俳優として下積みの日々を送りました。
ただ、芽が出るのは時間がかかるだろうと思っていたといいます。
最初は『仕出し』という、群衆や通行人といったセリフのない役。
あるときはギャングA、あるときはヤクザAなどで『仕出し』の出演料は1本350円。
当時はラーメン一杯70円だったそうです。
出番が増え、その他大勢ではなく『役』が付くと出演料8000円。
当時は月給6000円の時代でした。
1963年4月公開の映画『柔道一代』の帝国大生役で映画デビュー。
22歳の時でした。、
同年に4本の映画に出演し、初めて4万円の車を買ったそうです。
車を買いましたが、どうやってこれから生きていけるのかと不安もあったといいます。
小林稔侍 高倉健との共演が転機
小林稔侍さんは転機となったのは1978年公開の映画『冬の華』だとと述べています。
小林稔侍さんは撮影所通いが始まって間もない頃、10期生全員で東映ニューフェイス2期生の高倉さんに自己紹介をしたことがあり、それ以降通りすがりに挨拶をすると、高倉健さんも『小林くん、頑張れよ』と返してくれるようになったといいます。
1964年公開の映画『いれずみ突撃隊』で初共演した際には乗馬経験のない小林稔侍さんに『稔侍、俺が練習つけてやるよ』と言ってもらえるまでになり、出会いから1年で呼び名は『小林くん』から『稔侍』に格上げされていました。
2人は毎晩のように夕食を食べる間柄になり、先輩である高倉健さんに小林稔侍さんがあれこれと気を配ると、
『俺の付き人のようなことはやめろ』
と釘を刺されたといいます。
映画『冬の華』では共演といっても小林稔侍さんの役はセリフのない脇役でしたが、スポーツ新聞に『抜群の演技』と紹介されたそうです。
それから仕事が入るようになり、1986年4月から放送された朝ドラ『はね駒』のヒロインの父親役でブレイク。
1987年1月公開の映画『夜汽車』などの演技で、
日本アカデミー賞 優秀助演男優賞
を受賞。
1999年6月公開の高倉健さん主演映画『鉄道員(ぽっぽや)』では、
日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞
を受賞しました。
小林稔侍の結婚した妻は?
小林稔侍さんが結婚したのは1970年。
28歳の時でした
妻は一般女性。
『職業欄に俳優と書けるようになったのは37歳から』
引用 https://smart-flash.jp/
小林稔侍さんは2017年に『ボクらの時代』に出演した際に、結婚する時に妻に、
『何も夢を持たないでくれ』
と言ったと話しています。
結婚した時には高倉健さんが保証人になったそうです。
小林稔侍の子供は息子と娘
小林稔侍さんの子供は息子と娘の2人。
1971年6月に長男の小林健さん
1973年1月に長女の小林千晴さん
が誕生しました。
息子に小林稔侍さん自身で『健』と命名し、娘には高倉健さんに名付け親をお願いし『千晴』としたそうです」。
2人とも俳優をしています。
小林健さんは1992年にNHKの朝ドラ『ひらり』の 寒風山久男役で出演。
渡瀬恒彦さん主演の『タクシードライバーの推理日誌』シリーズの東大出身の刑事・国代義明 役を長く演じました。
林千晴さんは1995年にドラマ『味いちもんめ』に出演。
2005年からは小林稔侍さん主演の『税務調査官・窓際太郎の事件簿』シリーズに北島冬美役でレギュラー出演しています。
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