神奈川県出身の歌手・美空ひばりさん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
デビューのきっかけは?
晩年や亡くなった原因は?
結婚歴や夫は?
子供は息子で何人?
今回は歌手の美空ひばりさんをリサーチしてみました。
目次
美空ひばりの学歴・生い立ち・経歴
名前 美空ひばり
生年月日 1937年5月29日
没年月日 1989年6月24日(52歳没)
出身 神奈川県横浜市磯子区
身長 155cm
血液型 O型
小学校・横浜市立滝頭小学校
中学校・精華女子中学校
高校・・精華女子高校
大学・・大学には進学していません
出生名は加藤 和枝(かとう かずえ)、妹が1人と弟が2人いる4人兄弟の長女。
生家は横浜市磯子区の屋根なし市場と呼ばれた下町で、魚屋『魚増』を経営していました。
小学校は横浜市立滝頭小学校を卒業。
6歳の時に父親は出征していますが、戦後、復員し帰郷しています。
中学校は精華女子中学校、高校は精華女子高校
を卒業。
精華学園は、1889年に女子独立学校として 東京府南豊島郡角筈村に開校し、1901年に精華学園としてを設立し、
戦後に精華女子中学校、高校となりました。
西新宿一帯の再開発に影響されて1969年に新宿区柏木に移転し、1973年に千葉県市原市に移転。
1974年に東海大学と提携し、1986年に男女共学化に伴い校名が東海大学付属望洋高校になり、2016年に東海大学付属市原望洋高校に変更されました。
現在の偏差値は50~58。
卒業生には女優の吉永小百合さんや星由里子さんがいます。
高校卒業後は、大学などには進学していません。
美空ひばりが歌手デビューしたきっかけは?
両親は音楽好きで、実家には多くのレコードがあり、美空ひばりさんは幼少期に歌い歌うことの楽しみを知ったといいます。
1943年6月に父親が出征となり、開かれた壮行会で父親のために歌った『九段の母』は、集まった人たちは感銘を受けて涙を流したといい、母親は美空ひばりさんの歌に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜で慰問活動を始めるようになりました。
戦後、1945年に復員した父親が、私財を投じて地元の青年を集めアマチュアバンド『青空楽団』を結成し、8歳の時に横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏みました。
1946年に、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いましたが、当時、子供は童謡を歌うという暗黙のルールがあり、大人の歌を歌った美空ひばりさんを審査員は『上手いが供らしくない』と合格にはしませんでした。
1947年には四国巡業中に、乗っていたバスが横転し重傷を負い、事故に衝撃を受けた父親は『もう歌を歌わせない』と歌い反対しましたが、美空ひばりさんは『歌えないくらいなら死んだほうがいい』と抗議したといいます。
1948年に神戸松竹劇場への出演したことがきっかけで、喜劇俳優の川田晴久さんの公演に抜擢され後に美空ひばりさんは、
『師匠といえるのは父親と川田先生だけ』
と話しています。
舞台で活躍し、1949年3月公開の映画『のど自慢狂時代』にブギウギを歌う少女として映画初出演し、同年8月公開の映画『踊る竜宮城』にも出演し、主題歌の『河童ブギウギ』でB面でしたが、11歳で正式に歌手デビューを果たしました。
美空ひばりブレイクしたきっかけは?
1949年10月公開の映画『悲しき口笛』で映画初出演し映画は大ヒット。
、同タイトルの主題歌も歌い45万枚の売り上げを記録し、12歳で国民的な人気を獲得。
1950年9月に公開された主演映画『東京キッド』の主題歌『東京キッド』は映画と共にヒットし、1952年11月公開の主演映画『リンゴ園の少女』の主題歌で29枚目のシングル『リンゴ追分』は戦後最大の70万枚を売り上げました。
1954年の第5回NHK紅白歌合戦に初出場し、1979年までに18回出場しました。
1955年に江利チエミさん、雪村いづみさん共に『ジャンケン娘』に出演したことで『三人娘』として人気を博しました。
美空ひばりさんの最大のヒット曲は1989年1月に発売された304枚目のシングル『川の流れのように』。
最終的には200万枚以上を売り上げ、第31回日本レコード大賞金賞・作曲賞を受賞しました。
美空ひばりの晩年や亡くなった原因は?
美空ひばりさんは1985年5月、誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったといいます。
その頃から、原因不明の腰痛が発症し、徐々に腰痛が悪化。
1987年4月に、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院し、診断は重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症で、約3か月半にわたり療養。
1998年1月に自身最大のヒット曲となる『川の流れのように』をリリースしましたが、この時に美空ひばりさんの肺は病に侵されていたといいます。
同年3月に『特発性間質性肺炎』と診断されましたが『原因』は不明だったといいます。
同月のコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し療養しましたが、6月13日に呼吸困難を起こして重体に陥り、人工呼吸器がつけられ6月24日に症状が悪化し亡くなりました。
美空ひばりの結婚歴や夫は?
美空ひばりさんの結婚歴は1度。
結婚したのは1962年、25歳の時でした。
夫は俳優で歌手の小林旭さん。
1938年11月3日生まれで、年齢は1歳年下。
馴れ初めは1961年秋の雑誌『明星』の対談企画『当代の人気者No.1 対談』でした。
美空ひばりさんが小林旭さんに好意を抱き、
『恋人はいるの?』
と質問し、小林旭さんは、
『いないよ』
と答え、その後、美空ひばりさんの猛アプローチでが始まりました。
それは圧倒されるような勢いで、小林旭さんも次第に『そういうものかな』と思うようになったと話しています。
『天下のひばりが、惚れたと言うとんのや。男冥利に尽きるやろ』
結婚の決定打となったのは、美空ひばりさんの興行を手掛けていた、山口組組長・田岡一雄さんの一言だったといいます。
小林旭さんは多少の時間をくださいと言うのが精一杯で、とんとん拍子でものごとが決まっていったそうです。
美空ひばりと夫の離婚理由は?
美空ひばりさんは結婚を発表しましたが、入籍はしておらず戸籍上は生涯独身のままでした。
理由は母親で、入籍を希望しましたが、
『不動産処分の問題があるから』
と断られ続けていたといいます。
離婚したのは1964年、結婚2年目でした。
美空ひばりさんは結婚後、割烹着を着て台所に立ちましたが、主婦を続けることには限界があったといい、結婚に反対だった美空ひばりさんとの母親との確執も深刻になったと言われています。
離婚の決定打も山口組組長・田岡一雄さんの、
『日本のひばりなんだから、世間の人に返してやれや。お前一人のものにはできないんだよ』
との言葉だったといいます。
美空ひばりの子供は息子で何人?
美空ひばりさんの子供は息子が1人ですが、実子ではなく養子です。
息子の加藤和也さんは、実弟のかとう哲也の子供で、血縁上甥にあたります。
1971年8月10日生まれで、1977年の7歳の時に養子縁組をしました。
実の父親のかとう哲也さんは、美空ひばりさんの興業に携わっていた山口組との付き合いから、賭博や 拳銃不法所持で逮捕歴があり、加藤和也さんが生まれた翌年の1972年にも暴行容疑で逮捕されて、1973年には三代目山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚。
同年にも賭博容疑で逮捕され、判決は執行猶予付きでしたが、1974年に保護観察中も暴力団と付き合ったとして、執行猶予が取り消されて収監されました。
出所後はは任侠界と絶縁し、 1981年からひばりプロダクションの社長に就任しました。
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