三田村邦彦の再婚した妻や子供は?俳優デビューのきっかけや高校などの学歴・経歴

『必殺仕事人』の飾り職人の秀役を演じたことで知られる俳優の三田村邦彦さんの学歴や経歴は?

俳優デビューしたきっかけは?

2度の結婚歴がありますが妻や再婚相手は?

子供は何人?

今回は俳優の三田村邦さんをリサーチしてみました。

三田村邦の学歴・経歴

名前   三田村邦彦
生年月日 1953年10月22日
出身   新潟県新発田市
身長   178cm
血液型  B型
所属   M・P・T

実家は15代400年続く大地主の家系で、曾祖父は日本で最も長い歴史をもつ第四銀行の創立者。
家庭は裕福で、兄弟にはひとりひとりにお手伝いさんがついていたといいます。
厳しい家庭で、父親と話す時には正座、食事の時には父親が最初に食べるまで食べられなかったそうです。

小学校は新発田市立猿橋小学校、中学校は新発田市立猿橋中学校を卒業。

中学時代は卓球部に所属。兄に半ば無理やり兄に入部させられましたが、卓球部には小学校に転校してきて惹かれていた女の子所属していて、その子に卓球の勝負を挑みましたが敗北しています。

高校は新発田高校に進学。

新潟県新発田市豊町にある男女共学の県立高校で、偏差値は61~64。
新潟県内ではトップ5に入る進学校です。

高校卒業後は大学には進学せず、上京して俳優を目指しました。

三田村邦彦が俳優デビューしたきっかけは?

初めて俳優に興味をもったのは幼稚園の頃でした。

『どうして俳優になりたいと思ったのか、その記憶もないぐらい小さな頃から、将来は俳優になろうと決めてました。』

しかし、実家が厳しかったことから俳優になりたいとは言えずに育ち、中学2年生の時に「どうしたら東京に行って俳優になれるか」を考えて計画を作り、高校生の時にそれを実行しました。

高校2年生の夏休みに大学には行くはないのに、「大学の下見に行く」と嘘をついて上京。大学には行かずに、劇団を見てまわり入りたい劇団の目星をつけました。

大学受験では不合格になりために白紙で提出し、

『進学率の高い東京の予備校へ行きたい』

と両親を説得して高校卒業後に上京することに成功。
入学した予備校には当然、1日も通わずアルバイトをしながら劇団に入団することを目指しました、

『文学座』に入団することを目指しましたが2年連続で不合格になり、20歳の時に劇団青俳養成所を経て『劇団青俳』に入団しました。

映画『限りなく透明に近いブルー』で主演デビュー

『台本を読んでつまらなかったので、その話を断ったんです。』

当時はアルバイトをしながら家賃5000円の3畳1間暮らしでしたが、有名な人以外はみんなアルバイトをしながら年2回の本公演に参加するというのが普通だったので、生活に焦りや不安はまったくなかったといい、新人の時に主演映画のオファーは台本がつまらないとの理由で断わりました。

劇団の先輩だった蜷川幸雄さんには、

『お前、馬鹿じゃねえか』

と言われたといいます。

その後、1979年3月公開の映画『限りなく透明に近いブルー』で主演デビューしましたが、この映画も最初は断っています。

『限りなく透明に近いブルー』は村上龍さんが芥川賞を受賞した作品ですが、三田村さんは原作を数ページ読んだだけで捨ててしまったほど内容が合わなかったため断ったといいます。

しかし、原作者の村上さんは納得がいかなかったようで、直接会いたいとの連絡をもらい、本を捨てたことも含めて、素直にいろいろ話し合ううちに村上さんは「俺とお前は真逆だよな」と言って、台本を三田村さんに合うよう書き変えてくれたそうです。

三田村邦彦必殺仕事人でブレイク

1979年3月公開の映画『限りなく透明に近いブルー』でデビューし、同年5月から放送された時代劇『必殺仕事人』に、血気盛んな飾り職人の秀役で出演しブレイクしました。

当初は殺し屋という役が嫌で、契約通りのの2クールでの降板を希望していましたが、ディレクターに、

『今辞めるのは中途半端だ』

と説得されて出演を延長。

1981年から放送された『新・必殺仕事人』の最終回では、壮絶な死を遂げる台本でしたが、ファンから助命嘆願が数多く寄せられて続投。

1982年からは『太陽にほえろ!』にジプシー刑事役で出演し人気を博しましたが、『仕事人』の出演のために出演期間は短縮されたといいます。

1986年には『必殺仕事人』のスピンオフドラマ『必殺まっしぐら!』で主演を務めました。

必殺仕事人には1991年10月から放送された『必殺仕事人・激突!』まで出演しました。

近年は関西ローカルの旅番組『おとな旅あるき旅』にレギュラー出演するなど、旅番組で活動しています。

三田村邦彦の妻

三田村邦彦さんの結婚歴は2回。

最初の結婚は1980年で、妻は6歳年上の女優中山麻理さん。
馴れ初めは三田村さんのデビュー映画『限りなく透明に近いブルー』での共演でした。

中山麻理さんは高校卒業後の1966年に東宝演芸部に入り、1967年に舞台『不信のとき』で初舞台を踏み、1968年、『兄貴の恋人』で映画デビュー。
1969年にドラマ『サインはV』(TBS)に出演したことで人気を獲得しました。

離婚したのは結婚19年目の1999年。

1996年に三田村さんと22歳年下の女優・高橋かおりさんの不倫が報道され、中山さんは高橋かおりさんを相手取り2000万円の損害賠償を求め裁判を起こし、ドロ沼裁判の末に離婚しました。

中山さんは結婚後は女優業を引退していましたが、離婚後は再開しました。

三田村邦彦の再婚相手

再婚したのは2010年5月で56歳の時でした。

再婚相手は26歳年下の、大阪府のテレビ番組制作会社に勤務していた京都府出身の女性。

関西ローカルの番組で出会い、5年の遠距離交際と、1年の同棲生活を経て結婚しました。

三田村邦彦の子供は何人?

三田村邦彦さんの子供は息子が3人と娘が1人の4人。

息子3人は最初の妻の中山麻理さんとの子供で、長男が1981年、次男が1982年、三男が1988年に誕生しました。
長男は三田村瞬、三男は中山麻聖の名前で俳優をしています

第4子となる娘は再婚相手との子供で。2010年3月に誕生。
生まれた時、三田村さんは61歳でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました