元プロレスラーで総合格闘技の世界でも活躍した高田延彦さんの学歴や経歴?
プロレスラーになったきっかけは?
ヒクソン・グレイシーと2度対戦して結果は?
結婚した妻の向井亜紀さんとの馴れ初めは?
子供は代理出産で現在は養子。
今回は元プロレスラーの髙田延彦さんをリサーチしてみました。
目次
髙田延彦の学歴・生い立ち・経歴
名前 髙田延彦
生年月日 1962年4月12日
出身 神奈川県横浜市
身長 183cm
体重 93kg
血液型 A型
所属 レプロエンタテインメント
小学校は横浜市立上飯田小学校、中学校は横浜市立中和田中学校を卒業。
父親の職業は自動車関連。身長は160cmないくらいで、母親の方が高かったそうです。
小学3年生の時に両親が離婚。母親が家を出て行き、父親に引き取られて育ちました。
母親が「出て行く」と宣言して、出て行くまでの1週間は泣いてばかりいたたといい、母親が出て行った後の食事は、高田延彦さんが毎日ご飯を炊き、父親ががおかずをを作って食べていたそうです。
小学生の時には大の巨人ファンで、長嶋茂雄さんに憧れて野球チームの所属。ポジションはキャッチャーでした。
希望はサードでしたが、チームに入って練習を始めてすぐに監督に呼ばれ、キャッチャーになったそうです。
横浜市の選抜チームにも選出されましたが、小学6年生の時に長嶋さんが引退すると野球熱は冷めて、小学校で野球は辞めました。
中学時代にトレーニングを始め、中が卒業後は高校に進学せずにプロレスラーを目指しました。
髙田延彦がプロレスラーになったきっかけは?
高田延彦さんは野球をやめた後、アントニオ猪木さんに憧れてプロレスに熱中。
自身がプロレスラーになろうとまでは考えてはいませんでしたが、中学2年生の時に横浜文化体育館にプロレスを見に行った際、買ったパンフレットに『君もプロレスラーになれる』の募集を見つけ、会場では自分と同年代の選手が練習している姿と見て、その場でプロレスラーになることを決意しました。
募集が「中学卒業」からOKだったので、高校に進学しないことも決め、以降は中学校には通わずにトレーニングを開始。
半年後に担任が自宅に来たことで父親にバレて、初めて父親に
『プロレスラーになる。だからもう学校も行かない』
と話すと、なんとなく察していたようで、
『受けるのは1回だけにしろよ』
と許してくれたといいます。
入団テストで大遅刻
中学卒業の時点では応募条件の体重には届いてなく、中学卒業後はアルバイトをしながらトレーニングを続けました。
アルバイト料で肉を買ったり、トレーニング用具を揃え、やっと規定の体重に達したのは17歳の時でした。
3年かけて受けた入団テストでしたが、テスト会場の最寄り駅の『等々力』の駅の読み方や響きが分からず、通り過ぎてしまい大遅刻。会場に着いた時にはテストは終了し、人の気配もなかったといいます。
「すべてが終わった」と絶望し立ちすくんでいると、たまたま出てた山本小鉄さんに「なんだ、お前!」と怒鳴られ、とっさに遅刻したことを説明すると、また怒鳴られましたが、その後、
『やる気あんのか?本気なのか?』
と言われ、一通り試験をやってくれて、2週間後に合格通知が届いたそうです。
プロレスラーデビュー後
1980年に新日本プロレスへ入門し、藤原喜明さんと前田日明さんにスパーリングで鍛えられ、1981年5月9日にデビュー。1982年からはアントニオ猪木さんの付き人を務めました。
藤原喜明さんに誘われてUWFに移籍しましたが、団体が解散したため、再び新日本へプロレスに合流。
1988年には藤原喜明さん、前田日明さんらと第2次UWFを立ち上げましたが、1991年には前田さんのリングス、藤原さんの藤原組、高田さんのUWFインターナショナルに分裂。
UWFインターナショナルの社長を務めながら、選手としても人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選出。
1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組『スポーツWAVE』のキャスターを務めるほどの知名度になりました。
UWFインターナショナルは高田さん以外の知名度のある選手がいなかったことから、1996年12月に解散。
翌年の1997年からはの総合格闘技興行『PRIDE』に参加しました。
ヒクソン・グレイシーと2回対戦
当時メディアで『400戦無敗の男』と呼ばれたブラジリアン柔術bのヒクソン・グレーシー選手さんと、1997年10月11日の「PRIDE.1」で対戦。
ヒクソン選手との対戦は話しがあってから、2年後でした。
ヒクソン側はOKでしたが、会場やテレビの放送などの条件が大変で二転三転したといい、高田さんは一時は気持ちが切れていまったといいます。
試合は、自分から間合いを詰めることができず、1ラウンド 4分47秒で腕ひしぎ十字固めで敗北。
「敗北者」という烙印を背負い、2か月くらい悶々としながら酒を飲み歩く日々が続いたといいます。
2度目の対戦は1年後の1998年10月11日。
『私は2回とも腕十字で負けたわけですが、あの体勢から腕十字が来るというのは百も二百も三百も承知だった。そこで「ニュルッ」と持っていく“肌感”というかタイミング、スピード、柔らかさ、呼吸。そういうものを特に2回目で感じました。「居合」のようなイメージと表現すればいいのかな。』
試合には集中して望めしたが、1ラウンド 9分30秒で腕ひしぎ十字固めで敗北しました。
2002年11月24日に田村潔司選手相手に引退試合を行い、2Rに右フックで失神KO負けしました。
試合後に田村選手に「Uインター出てこいや」と言い、その発言が格闘技ファンの間で有名になり、引退後にPRIDE統括本部長に就任すると、全選手入場時に、「男の中の男たち、出てこいやー!」と発しています。
2008年からはプロレスイベント『ハッスル』で悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」として登場し、2013年にはレスリングと格闘技の道場『髙田道場』を設立しました。
妻の向井亜紀との馴れ初めは?
高田延彦さんと向井亜紀さんが結婚したは1994年1月
高田さんが31歳、2歳年下の向井さんは29歳でした。
馴れ初めは高田さんのひと目惚れ。
テレビで向井さんを見て一目惚れし、知り合いに頼んで紹介してもらい出会いました。
初デートではワインを高田延彦さんが9本、向井亜紀さんが4本、2人で13本空けてたといい、帰りのタクシーではプロポーズしましたが、酔っていたため一切記憶がなく、運転していたたタクシー運転所の週刊紙での証言で初めて知ったといいます。
その後、交際がスタートし、約5年の交際期間を経て結婚しました。
子供は代理出産で養子
結婚6年目の2000年9月に向井さんは妊娠しましが、検査で子宮がんであるこも同時にわかりました。
知り合いの卵巣膿腫で手術を受けた経験のある女性医師に、教えてもらった医師にセカンドオピニオンを受け、進行度から、
『まず円錐切除術を行って患部を除去し、あとは病理検査の結果を見て対応を決めたい』
との治療方針が示され、納得した向井さんは手術を受けましたが、後の検査でがんが残っていることがわかり、子宮は全摘出。
その際に卵巣はには手術中の検査でがんが発見されなかったため残し、代理出産をすること決意。
2003年に卵子を代理母にの胎内に移植し、2003年11月に双子の男児が誕生。
2004年に出生届けを提出しましたが、日本法律では「産んだ女性が母親」となるため不受理。
裁判を起こし最高裁まで争いましたが認められることはなく、2009年に「特別養子縁組」して親子となりました。
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