大阪府出身の映画監督・山田洋次さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
映画監督になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供はいる?
今回は映画監督の山田洋次さんをリサーチしてみました。
山田洋次の学歴・生い立ち・経歴
名前 山田洋次
生年月日 1931年9月13日
出身 大阪府豊中市
血液型 A型
中学校・東京都立第八中学校
高校・・宇部高校
大学・・東京大学法学部
父親、母親、兄、弟の5人家族。
父親は九州大学工学部卒業の技術者で、大阪の汽車製造会社で蒸気機関車の設計をしていました。
父親の性格は実直で黙々と仕事をこなすタイプ、対して母親は楽天的で明るい性格で、開放的で日本的な因習に染まらない人だったそうです。
両親は山田洋次さんが大学に入学した頃に離婚しました。
大阪府豊中市に生まれましたが、父親が満州鉄道に勤めたため、2歳の時に満州に渡り幼少期を満州で過ごしました。
14歳で終戦を迎え帰国し、東京都立第八中学校に入学しましたが、間もなく山口県宇部市の伯母の家に移りました。
東京都立第八中学校の中学は当時の制度で、同校は現在の東京都立小山台高校。
東京都品川区小山ある男女共学の高校で、現在の偏差値は69。
山口県宇部市に移った後は、旧制宇部中学校、現在の山口県立宇部高校に編入。
山口県宇部市寺の前町にある男女共学の高校で、現在の偏差値は68。
卒業後は、戦前にあった飛び級で、1948年に旧制山口高等学校(現山口大学)に入学しましたが、在学中に学校の制度改革を経験し、1949年、旧制高校を1年で卒業。
1950年に東京大学法学部に入学し、1954年に卒号しました。
山田洋次が映画監督になったきっかけは?
東京大学卒業後、映画会社の松竹に補欠合格し繰り上げで入社し、助監督となりました。
しかし、山田洋次さんは大学時代から映画監督を目指したわけではありませんでした。
東京大学法学部に入りましたが、授業にはあまり出席せず、落第すれすれで成績もよくなく、新聞社や映画会社は学校の成績を重視しないと聞き、それらの会社を片っ端ら受けて、たまたま松竹に補欠合格したそうです。
映画は当時の日本の最大の娯楽でだったので、よく見ていたそうです。
山田洋次 映画監督デビュー後
1954年に松竹に入社、同期には大島渚さんがいました。
脚本家・助監督を務めた後、1961年『二階の他人』で監督としてデビューしましたが、松竹の同期には大島渚さんがいて気鋭の新人として活躍し早々に退社、山田洋次さんは目立った存在ではありませんでした。
その後、テレビドラマの脚本を担当するようになり、1968年、フジテレビの連続テレビドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。
ドラマ『男はつらいよ』はヒットし、翌年の1969年に松竹で映画化されましたが、当初、監督は山田洋次監督だけでなく輪番でした。
当初は観客動員数もほどほどでしたが、5作目に監督が山田洋次さん単独になった頃から、配給収入も増え、1作目は1億1000万円でしたが、12作目には10億円を突破。
以降はほとんどの作品が10億円以上の配給収入を獲得し、多い時には15億円を超え、通算50作公開されました。
1988年から公開され脚本を担当した『釣りバカ日誌』もソリーズ化され2009年まで22作が公開されています。
1977年に公開された『幸福の黄色いハンカチ』で、
日本アカデミー賞・最優秀監督賞
を受賞し、その後も、
1992年『息子』、1993年『学校』、2003年『たそがれ清兵衛』で同賞を受賞しています。
『たそがれ清兵衛』は米国アカデミー賞で外国映画賞にノミネートされるなど、海外でも高い評価を得ました。
山田洋次の結婚歴や妻は?
山田洋次さんが結婚したのは1954年5月、22歳の時でした。
妻の名前はよし恵さん。
年齢は1歳年下か同い年のようです。
よし恵さんは日本女子大学卒業後、出版社に務め、子供が出来た後は退職しましたが、子供が大きくなった後は女性雑誌の研究家として知られ、婦人運動の先駆者として知られる平塚らいてうらを研究対象にしていたといいます。
2008年にがんのために、76歳で死去しました。
山田洋次に子供はいる?
山田洋次さんの子供は娘が2人。
長女はピアノの先生になり、次女はTBSに就職し、ディレクターとして2時間ドラマ、バラエティ番組、ドキュメンタリー、音楽番組の制作関わった後、BS-TBSに移籍したそうです。
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