藤村俊二の結婚歴や妻・子供は?死因や晩年、おひょいさんの由来は?経歴・学歴

映画『デスノート』でワタリ役を演じた藤村俊二さんの経歴や学歴は?

芸能界入りしたきっかけは?

あだ名のおひょいさんの由来は?

結婚歴や妻、子供は?

死因や晩年は?

今回は俳優、タレントの藤村俊二さんをリサーチしてみました。

藤村俊二の学歴・生い立ち・経歴

名前   藤村俊二
生年月日 1934年12月8日
没年月日 2017年1月25日(82歳没)
出身   神奈川県鎌倉市
血液型  AB型
所属   O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)

6人兄弟の2番目、父親はスバル興業の社長で、生活は裕福でした。

小学校から高校まで暁星学園に通っていました。。

東京都千代田区富士見にあるカトリック系の私立学校で、暁星中学校の偏差値は68。

中高完全一貫制のため、暁星高校は生徒募集はありませんが、毎年、東京大学に合格者を出す進学校です。

暁星学園は芸能人が多く、俳優の北大路欣也さんや香川照之さんも卒業生です。

中学時代は演劇部に所属、高校時代は芸者遊びをしていたといい、東京だと父親にバレるので伊東まで行って芸者遊びをしていたそうです。

高校卒業後は、 早稲田大学・第一文学部演劇学科に進学。

演出家になりたくて、早稲田大学の演劇科に進学しました、授業が理論ばかりでつまらなかったことから、大学は1年で中退しました。

藤村俊二が芸能界入りしたきっかけは?

大学中退後は、開校したばかりの東宝芸能学校の舞踊科に1期生として入学し、パントマイムやバレエを学びました。

卒業後は、日劇ダンシングチームに入団。

1960年にイギリスやフランスを巡ると、本場の芸の水準に驚いて舞踊家の道を断念し、振付師に転向しました。

振付師で芸能界入り

振付師として芸能界入りし、ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)のオープニングや、レナウン「イエイエ」のCMの振り付けなどを担当。

テレビに出演するようになると、バラエティ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)や、ぴったし カン・カン(TBS)で、飄々としたキャラクターで人気となり、ドラマ、映画にも出演。

50代半ばに胃がんを経験した後は、白髪染めを辞めて、白髪と白い口ひげがトレードマークとなり、俳優としてやさしくて気のいい老人や老紳士役を多く演じ、2006年公開の映画『デスノート』』デスノート the Last name』ではワタリ役を演じました。

芸能界で活躍する一方、東京・南青山でバー『O’hyoi’s』(オヒョイズ)を経営していました。

藤村俊二あだ名のおひょいさんの由来は?

あだ名の『おひょいさん』の由来は、振付師時代に番組中にエキストラ出演を頼まれることが多く、カメラが自分に向くと、画面に映るのが嫌でその場から「ひょい」と逃げていたことや、タレントになっても気が乗らないとヒョイと帰ってしまったことから『おひょい』と呼ばれていたと言われ、後輩には『おひょいさん』と呼ばれていたそうです。

藤村俊二の結婚歴や妻、子供は?

藤村俊二さんの結婚歴は2度。

最初の結婚は1961年9月、26歳の時で、妻は元日劇ダンサーだったの女性でした。

1966年に長男、その後、長女も誕生しましたが結婚34年目の1995年に離婚。

翌年の1996年、61歳の時に28歳年下の長尾みか代さんと再婚。

みか代さんは再婚時、34歳でした。

みか代さんは紀行番組や『ニュースプラス1』の特集コーナーのリポーターなどを務めていたタレントで、番組を通じて知り合ったといいます。

しかし、結婚17年目の2013年12月に離婚。

離婚は発表はされず、藤村さんが亡くなった後に、離婚していたことが報じられました。

藤村俊二の死因や晩年

2015年10月から体調不良で、2011年から担当していた『ぶらり途中下車の旅』のナレーションを降板。その後は引退状態でした。

降板の原因は小脳出血で、療養生活を送っていましたが、何度も危険な状態があったといいます。

晩年は長男と2人暮らしでした。

2016年夏に肺炎でにかかり容態が悪化し、2017年1月25日に心不全で他界。82歳でした。

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