加山雄三さんは神奈川県出身の俳優、シンガーソングライター。
学歴や経歴は?
父親は俳優?
嫁はどんな人なんでしょうか?
子供は息子?
加山雄三の現在は?
今回は加山雄三さんをリサーチしてみました。
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加山雄三の学歴・経歴
名前 加山雄三
生年月日 1937年4月11日
出身 神奈川県茅ヶ崎市
身長 175cm
加山雄三さんは神奈川県横浜市生まれ、茅ヶ崎市育ち。
父親は俳優の上原謙さん。
母親は女優の小桜葉子さん。
兄弟は妹。
生後8ヶ月までは横浜市、、1歳9か月までは田園調布で過ごしました。
加山雄三さんは幼少期は病弱だったため、父親の上原謙さんが、自然環境の良い奈川県茅ヶ崎市へ引っ越しました。
茅ヶ崎市の家は日本家屋でお手伝いさんも数人いたそうです。
小学校は茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校
中学校は茅ヶ崎市立第一中学校
高校は慶応義塾高校(偏差値75)
大学は慶応大学法学部政治学科(偏差値68)
小学生の時から家庭教師がついていて、先生は現在の東京海洋大学の学生だったそうで、船の設計図などを見せて貰ったりしているうちに船へ興味がわいたそうです。
中学時代14歳の時には手作りでカヌーを作り海にでたといいます。
それ以来、大小10隻以上の船も設計しており、光進丸という自ら設計した全長25.6メートル、100トンを超える船を所有しています。
他にも木製のサーフボードなども自作していたそうです。
高校はいくつかの志望校を見学に行き、校風が自分に合ってと思った慶応高校だけを受験。
東大生の家庭教師もついて猛勉強して合格したといいます。
高校時代には同じ高校の先輩に「おまえはもてるだろうな」とからかわれて、その反抗心から髪を坊主にして登校し、卒業まで髪は伸ばさなかったそうです。
進学先は船の憧れから、造船技師や船乗りになろうと、商船大学への進学も考えたそうです蛾周囲から、
「せっかく慶応に進学したのだから、もったいない」
と言われて慶応大学に進学。
船舶設計の専攻がある工学部への進学をを考えましたが、成績が届かず断念し法学部政治学科に進学したそうです。
大学時代にはバンドを結成しながら、11歳から本格的の始めたスキーで国体を目指して大会に出場。
22歳の時、蔵王で開かれたスキーの国体本大会に出場しました。
加山雄三の父親は俳優
加山雄三さんの父親は俳優で、戦前・戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人。
俳優としてデビュー後、兵役となり軍隊生活を送りますが、所属部隊は上原謙さんののファンレターの山に忙殺されたといいます。
二枚目俳優として活躍した上原謙さんですが、晩年にはカツラを着用していることを宣言し、男性用カツラのCMに堂々と出演。
お笑いバラエティー番組にも多く出演していたそうです。
加山雄三 「若大将シリーズ」で大スター
加山雄三さんは大学卒業後、芸能界に入るつもりはなく、アサヒビールや三菱商事などの就職資料を取り寄せ、就職するつもりでした。
芸能界に入ったのは大好きな船が理由。
就職活動中にバンド仲間に、
「お前が大学でやったことは、スポーツと歌しかねえだろう。それを生かして金儲けして、船を作ればいいじゃないか」
引用 https://www.asagei.com/
と言われ、1960年に会社員として映画界に就職する感覚で東宝へ入社。
東宝を選んだのは各映画会社の株価を見て、一番高かったの東宝だったからだそうです。
同年8月公開の三船敏郎主演映画「男対男」で俳優デビュー。
翌年の1961年7月、「夜の太陽」で歌手デビュー。
同月に公開された「大学の若大将」がヒットしシリーズ化。
この映画で加山雄三さんは大スターの道を歩むことになりました。
「若大将シリーズ」は多いときには年3本公開され、1981年まで製作されました。
歌手としては1965年12月に公開された若大将シリーズの「エレキの若大将」の主題歌としてリリースされた「君といつまでも」が350万枚の大ヒット。
翌年の1966年の第17回NHK紅白歌合戦に出場。
紅白歌合戦には2010年までに計17回出場しています。
加山雄三 負債と低迷
加山雄三さんは人気絶頂だった1965年に神奈川県茅ヶ崎市に「パシフィックホテル茅ヶ崎」を開業。
1967年には運営会社の取締役に就任しました。
しかし、1970年3月に23億円の負債を抱え倒産。
ホテルはホテルは18億円で売却されましたが、監査役でもあった加山雄三さんは巨額の債務を抱えることになりました。
さらに、1969年の「フレッシュマン若大将」以降低迷した若大将シリーズが1971年に終了してしまいます。
デビューしてすぐ大スターになった加山雄三さんはかつてない不遇の時代を迎えました。
出演映画は減少し、ナイトクラブ、キャバレー回りをして収入はほぼ全額借金の返済に充てて、質素な生活を続け借金は10年で完済したそうです。
その後は、活動の主軸をテレビに移し活動し、ドラマやバラエティ番組で活躍し、都内の高級住宅街に豪邸を建てるまでになります。
しかし、バブル絶頂期の1991年に新潟県南魚沼郡湯沢町に総工費100億円ともいわれるスキー場「加山キャプテンコースト」を開設。
若者のスキー離れなどで、経営資金調達困難になり赤字で2011年7月に閉鎖。
再び借金を背負い自宅を手放さざるを得なくなったそうです。
加山雄三の嫁は?
加山雄三さんが結婚したのは1970年9月。
嫁は女優の松本めぐみさん。
年齢は加山雄三さんの10歳年下。
加山雄三さん33歳、松本めぐみさん23歳の時のの結婚でした。
松本めぐみさんは日本音楽高等学校在学中にCMソングのコンテストで入選し、松下電器のCMガールとなり芸能界入り。
1964年、17歳の時、TBS系ドラマ「七人の孫」に出演し、クイズ番組のアシスタントも努めました。
加山雄三さんと松本めぐみさの馴れ初めは映画での共演。
1965年の映画「エレキの若大将」で共演しました。
松本めぐみさんは初めての映画出演でした。
挙式はアメリカ・ロサンゼルスの教会で挙げました。
加山雄三の子供は息子?
加山雄三さんの子供は4人。
息子2人と娘が2人です。
1972年に長男の信宏さん
1975年に次男の徹大さん
1976年に長女の真悠子さん
1978年に次女の絵美子さん
が誕生しました。
長男の信宏さんは1995年にミュージシャンとしてデビュー。
花火師の資格も持ち、2008年には「長岡花火大会『天地人花火』」のプロデュース。
2016年には「リオデジャネイロ五輪」の閉会式の花火の演出も担当したそうでです。
次男の徹大さんは俳優。
山下徹大の名義で活動していましたが、2019年1月に芸名を加山 徹(かやま てつ)に改めて俳優活動をしています。
長女の真悠子さんは大学在学中にスカウトされ、21歳でNHK大河ドラマ「毛利元就」で女優デビューし、その後を料理研究家をしていたようです。
次女の絵美子さんは池端えみの名義で女優をしていました。
ドラマは2003年、映画は2009年の出演が最後のようで、現在はニューヨーク在住のようです。
加山雄三の現在
加山雄三さんは現在は俳優はほとんどしておらず、音楽活動がメインのようです。
2010年代にもシングルをリリースしており、2018年にも発売しています。
2019年末頃からは嫁の松本めぐみさんと「自立型ケアハウス」に入居しています。
「自立型ケアハウス」とは介護施設よりも自立した生活ができ、主な家事は生活支援スタッフがサポートしてくれる施設のようです。
加山雄三さんが入居しているのは東京・中央区のマンション。
加山雄三さんは2019年11月に脳梗塞を発症しましたが、それよりも前にケアハウスの入居は決めていたようです。
加山雄三さんと嫁の松本めぐみさんはケアハウスに一緒に入居するまで、半別居状態だったそうです。
2014年に加山雄三さんと松本めぐみさんがインタビューで明かしています。
松本めぐみさんは加山雄三さんが所有するニューヨークの家に住み、1年の半分はアメリカにいたそうです。
これは夫婦中が悪くなったわけではなく、加山雄三さんと松本めぐみさんはアメリカでの仕事や将来のために、グリーンカード(米国永住権)も取得しているそうです。
松本めぐみさんは、
「主人はアーティストですので、日本や世界中で仕事があるとみなされているから、その収入を申告してしっかり税金を納めればいいんですが、私は妻ですから、半年以上アメリカに滞在しなければいけないというルールがある。それを守らないとグリーンカードを剥奪されてしまうんです」
引用 https://www.news-postseven.com/
と明かしました。
毎日電話し、仕事の合間には加山雄三さんがニューヨークに通っていたそうです。
松本めぐみさんはケアハウスに入居するタイミングで帰国し、その後はケアハウスで一緒に暮らしているようです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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