西川きよしさんはベテラン漫才師。
学歴や経歴は?
妻のヘレンさんとの馴れ初めは?
子供は息子と娘がいるようですが、何人いるのでしょう?
今回は漫才師の西川きよしさんについてリサーチしてみました。
目次
西川きよしの学歴・経歴
名前 西川きよし
生年月日 1946年7月2日
出身 高知県高知市
身長 165cm
所属 吉本興業
小学校・高知市立朝倉小学校から大阪市立市岡小学校
中学・大阪市立三稜中学校
高校・進学していません。
5人兄弟末っ子。
姉が3人、兄が1人。
父親は高知県で建設関係の事業をしていましたが、西川きよしさんが7歳の時に祖父が借金の保証人になったことで事業は失敗。
借金取りが家に押し込み一家は窮地に陥いり、夜逃げ同然で大阪に転居。
父親は大阪ではタクシー運転手になりましたが狭いアパートに7人j暮らしで生活は苦しかったといいます。
西川きよしさんは10歳から新聞配達、八百屋、牛乳配達などのアルバイトをし家計を助けたそうです。
もらった給料を母親に渡したときの喜ぶ顔が、西川きよしさんにとって幸せだっといいます。
中学ではサッカー部に所属。
高校でもサッカー所属しようと思っていましたが父親が中学を卒業する直前に十二指腸潰瘍で倒れたために高校進学を断念。
中学卒業後は自動車修理工場に就職しましが、17歳の時に仕事中に手に大やけどを負い、それが原因で会社は退職しました。
西川きよし 先輩に勧められ芸人に
西川きよしさんは会社の先輩から
「トンチがきく」
「お前はおもしろい」
とお笑いに道を勧められ、芸人になることを決意。
ミヤコ蝶々さん、藤田まことさん、白木みのるさんに弟子入りを志願しますが断られ、最後に9日間、毎日弟子入りを志願した石井均さんに拾われ弟子入り。
弟子入りの翌年に人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われて研究生として入団しなんば花月で熊役で初舞台を踏みデビューしました。
西川きよし『やすしきよし』結成
1966年5月、漫才コンビ『やすしきよし』を結成。
横山やすしさん、西川きよしさんお2歳年上で結成時、西川きよしさんは19歳、横山やすしさんは21歳でした。
結成の経緯は浪曲漫才コンビの『中山礼子・八多恵太』がコンビ解散を繰り返していた横山やすしさんに、吉本新喜劇の役者だった西川きよしさんを勧めたこと結成されました。
西川きよしさんは紹介されたとき、まだ研究生扱いで、それを辞めてコンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、
『やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ』
と言われ、新喜劇の脚本家は、
『きよしを渡せるか』
と横山やすしさんに怒鳴り込みケンカになったりと、コンビ結成は周りからはあまり祝福されなかったといいます。
結成当初は性格の違いから仲が悪かったといいます。
台本を何度か読むだけで漫才の流れをつかむ、飲み込みの速さがあった横山やすしさんを、読み合わせも何度もしないと気がすまない西川きよしさんには「稽古嫌い」と映り、ケンカになり時にはスーツがボロボロになるほどのつかみ合いのケンカになることもあったそうです。
『やすしきよし』は1960年代後半から1970年前半のの演芸ブームに乗り人気者となり、フジテレビ系の「お茶の間寄席」の司会や、朝日放送の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京に進出。
1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として活躍しました。
しかし、横山やすしさんはタクシー運転手に対する傷害や無免許運転事件など不祥事が多く、謹慎することもあり、活動機会が激減し、やがて吉本興業の専属契約を解除。
これによってコンビは事実上の解散状態になってしまいました。
横山やすしさんは1996年1月「アルコール性肝硬変」で死去。
再結成はないままでした。
西川きよし 参議院選出馬
西川きよしさんは1986年、参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し当選しました。
当時、西川きよしさんは40歳でした。
参議院選出馬した理由について、
『中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです』
と話しました。
義理の母親の介護の経験からら福祉関連に力を入れ活動。
キャッチフレーズは『小さなことからコツコツと』。
3期連続で当選し、国会議員生活は18年でした。
2004年の任期満了後はレギュラー番組を持つなど、第一線で活躍しています。
西川きよしと妻のヘレンの馴れ初めは?
西川きよしさんがヘレンさんと結婚したのは1967年9月。
ヘレンさんは1946年10月6日生まれで、西川きよしさんと同い年。
結婚時、西川きよしさんは21歳、ヘレンさんは20歳でした。
ヘレンさんは京都生まれで父親がアイルランド系アメリカ人で母親は日本人。
馴れ初めは吉本新喜劇。
妻のヘレンさんはヘレン杉本の名で吉本新喜劇にて活躍し、女優顔負けの美貌や、都合が悪くなると「私外人やから、日本語わかりません」とペラペラの関西弁でまくしたてるギャグが大受けし、吉本興業のマドンナ的存在として人気を博しました。
出会いは2人とも19歳の時。
西川きよしさんとヘレンさんが親しくなったきっかけは、ヘレンさんが体調をくずし、たまたま劇場に近くだった西川きよしさんの実家で休ませてもらったことでした。
西川きよしさんの家では、ヘレンさんのために父親が薬屋にいったり、母親はお粥を作ったりと一家族総出でヘレンさんの看病をしたそうです。
母子家庭で育ったヘレンさんは西川きよしさんの家族に心を打たれ、家庭のぬくもりというの感じたといいます。
このことで3人の姉とヘレンさんは親しくなり、その後、西川きよしさんとも親しくなり、すぐに交際に発展し結婚も意識するようになりました。
当時、ヘレンさんは吉本新喜劇の看板女優、西川きよしさんは研究生の立場。
収入はヘレンさんの10分の1もなかったといいます。
当然家族を養っていくだけいの収入は無く、そのため、結婚には吉本興業やヘレンさんの母親はもちろん、西川きよしさんの家族も大反対でした。
しかし、その時すでにヘレンさんのお腹には子供がいたため反対を押し切り結婚。
結婚を境にヘレンさんは吉本新喜劇をやめました。
結婚当初、「やすしきよし」はまだ売れておらず、吉本新喜劇を辞めたヘレンさんは、キャバレーで歌ったり、商店街の大売出しのイベントにゲスト出演するなどのアルバイトをして家計を支えたそうです。
西川きよしの子供は息子と娘で何人?
西川きよしさんの子供は3人。
息子が2人と娘が1人です。
長男の忠志さんが1968年4月
次男の弘志さんが1970年3月
長女のかの子さんが1974年7月
に誕生しました。
長男の忠志さんは俳優。
次男の弘志さんも俳優をしていましたが引退し、現在は飲食店を経営しています。
長女のかの子さんはタレントとして活動。
西川きよしさんが参議院議員をしていたときに秘書を経験しています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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