高倉健の結婚歴や妻、子供は?養女や不器用ですからの元ネタは?死因や学歴・経歴

映画「ぽっぽや」などで知られ、4度の日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞に輝いた高倉健さんの経歴や学歴は?
俳優になったきっかけは?
「不器用ですから」のセリフが有名ですが、元ネタのCMとは?
結婚歴や妻、子供や、養女とは?
死因や晩年は?

今回は俳優の高倉健さんをリサーチしてみました。

高倉健の学歴・経歴

名前   高倉健
生年月日 1931年2月16日
没年月日 2014年11月10日(83歳没)
出身   福岡県中間市
身長   180cm
血液型  B型
所属   高倉プロモーション

父親、母親、兄、2人の妹の6に家族。本名は小田 剛一(おだ たけいち)。炭鉱で栄えた福岡県中間市で、裕福な家庭に育ちました。

父親は旧日本海軍の軍人で、若松港の港運会社勤務する幹部社員、母親は元教師でしつけに厳しく、教育熱心だったといいます。

小学校は中間市立中間小学校に入学しましたが、幼少期から虚弱体質で、2年生の時には結核の初期症状が出たことから小学校は1年間休学。

北九州市立本城小学校に転校して復学後、疎開で北九州市立池田小学校に転校して卒業しました。

中学校は旧制東筑中学校を卒業。
福岡県北九州市八幡西区東筑にある現在の東築高校にあたり、同校に在学中の1948年に学制改革で東筑高校として開校。高校は東筑高校を卒業しました。

中学時代の14歳の時に終戦を迎え、アメリカ文化にふれるようになるとボクシングと英語に興味を持ち、学校に掛け合いボクシングを設立。
ボクシングの練習を始めてからは身体も強くなっていったそうです。

高校時代もボクシングを続け、英会話クラブの「ESS部」を設立し部長も務めました。
アメリカ映画を見て、発音を学んだといます。

高校卒業後は明治大学・商学部商学科に進学。商学部に進学したのは、貿易商になることを目指してのことで、大学でも英語は勉強していました。

大学時代は地元の宮相撲の横綱も務めたほど相撲が強かった父親の言いつけで、相撲部に入部しましたが、1年で退部しています。

就職活動では、思ったような就職先がなく、大学卒業後は九州に戻りました。

高倉健が俳優になったきっかけ

大学を卒業して九州の実家に戻った後は、父親の仕事を手伝っていました。

『このままじゃ埋もれてしまうと思ったんですね。それに、東京に好きな女の子がいまして、彼女と一緒になりたくて家出したんです』

再び上京し、大学の恩師の紹介で当時、美空ひばりさんが所属していた「新芸術プロダクション」のマネージャーになるための面接を喫茶店で受けていると、たまたま店に居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄さんの目に留まり、「俳優にならないか」と声をかけられスカウト。

1955年に東映ニューフェイス第2期生として入社。24歳の時でした。

日本侠客伝でブレイク

ニューフェイスは東映に入社後、6ヶ月間基礎レッスンを俳優座演技研究所で受け、その後、映の撮影所でエキストラ出演をすることが決まりでしたが、高倉さんは会社の期待が大きく入社1ヶ月半で主演デビューが決定。1956年1月公開の映画『電光空手打ち』でデビューしました。

しかし、俳優座研究所のレッスンでは、

『授業にならないからあなたは見学してなさい。俳優になるのはあきらめたほうがいい』

と言われるほどの落ちこぼれだったそうです。

高倉さんはデビュー作の役名「忍勇作」を気に入って芸名にすることを希望しましたが却下され、「高倉健」を付けられました。

同じ年に日活からデビューしまたたくまにスターになった石原裕次郎さんに比べ、高倉さんは幅広い作品で主演、助演として出演しましたがヒットすることはなく、映画1本のギャラ手取り1万8千円で、当時のサラリーマンの平均月収ほどでした。

しかし、高倉さんのスター性を信じていた、当時の東映東京撮影所の署長だった岡田茂さんは不発が続く高倉さんを辛抱強く使い続け、ギャング路線で注目され始めると、1963年3月公開の大作映画『人生劇場 飛車角』の準主役に抜擢。
本格的な大作の準主役は初めてでしたが、義理と人情に生きる侠客・宮川健 役を好演。
映画も大ヒットしたことから、東映では任侠路線の映画が製作されるようになり、高倉さんは降板した中村錦之助にさんにの代役に抜擢され、1964年公開の『日本侠客伝』に主演すると、寡黙な立ち姿と眼力がハマり映画は大ヒット。
33歳で一気にスターになり、ストイックな役柄のイメージを確立。1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などにの任侠映画で東映の看板スターとして活躍しました。

日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞を受賞

ヤクザ映画でスターになった高倉さんでしたが、1970に当時の東映社長だった大川博さんに、

『ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい』

と交渉し、承諾され「高倉プロモーション」を設立。

1973年の『仁義なき戦い』が大ヒットすると、東映が実録路線に梶を切ったことから、高倉さんは、

『このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる』

と危機感を覚え、1976年に東映を退社。

同年に『君よ憤怒の河を渉れ』に代議士役で主演を務め、任侠のイメージからの脱却に成功し、翌年の1977年の主演映画『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』で、

第1回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞
第20回ブルーリボン賞・主演男優賞

をダブル受賞。その後も、

1981年『動乱』、『遥かなる山の呼び声』、
1982年『駅 STATION』
2000年『鉄道員(ぽっぽや)』

で合計4度の日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞に輝いています。

高倉健の「不器用ですから」の元ネタ

「不器用ですから」のセリフが有名ですが、元ネタは1984年に放送された、日本生命 「ロングラン」のCMでした。

正確なセリフは「自分、不器用ですから」。

15秒のCMで、セーターを着た後、「自分、不器用ですから」とセリフはこの一言だけでした。

このセリフが高倉さんにハマり、「不器用」が高倉さんの代名詞となりました。

高倉健の結婚歴や妻、子供

高倉健さんの結婚歴は1度です。
結婚したのは1959年2月、28歳の時でした。

妻は歌手で女優の江利チエミさん。年齢は6歳年下で結婚時は22歳。

馴れ初めがは1956年に公開された映画『恐怖の空中殺人』での共演でした。

『江利の芸能界の母と言うべき存在だったのが清川虹子。江利が高倉にたいそう惚れ込んでしまい、清川に相談した。清川は健さんに『チエミちゃんのこと、何とかしてあげなさいよ』と言い、交際が始まりました。結局、押し切られる形で結婚へと至りました』

出会った時、江利さんは19歳でした。

離婚したのは結婚12年目の1971年9月。離婚の原因は江利さんの異父姉の様々なトラブルが理由と言われていいます。

『付き人をしていた江利の異父姉が横領事件を起こしたり、2人を攻撃するデッチ上げ話を流したりするなど、夫婦関係をこじらせる行為を繰り返したのだ。』

離婚はこれ以上高倉さんに迷惑をかけるわけにはいかないと思った江利さんからの申し出でした。

2人に子供はいませんでした。
1962年に江利さんは妊娠しましたが、重度の妊娠高血圧症候群を発症し、中絶を余儀なくされ、その後は子供に恵まれなかったといいます。

江利さんは離婚から11年後の1982年2月13日に、脳卒中と酔って嘔吐したものを喉に詰まらせたことで、45歳の若さで他界。高倉さんは江利さんの命日にはお墓参りを欠かさなかったといいます。

高倉健の養女

高倉健さんは2013年に33歳年下の女優・小田貴月さんを「養女」にしています。

「養女」ですが恋愛関係にあった女性です。

1996年に香港のホテルで当時、ホテルジャーナリストをしてた小田さんと高倉さんは出会い、高倉さんがその場に居合わせた人たちに「高倉健」と書かれた名刺を配り、帰国後に小田さんが香港取材の掲載誌を高倉さんに送ったことからふたりの交流が始り、その後、交際スタート。

高倉さんは離婚の経験から、

『紙(婚姻届)に縛られるのは違うんじゃないか』

との考えを持っていましたが、自分よりも若い小田さんの母親が脳梗塞で倒れた時に、親族でなかったため病状を聞くことも病室で看病することも出来きず、面会が親族しか出来ないことを知り、高倉さんは

『それは困る』

となり、何かあった時に病室に入れる「養女」という形で親族になったそうです。

高倉健の死因や晩年

高倉健さんは2005年の中国・日本合作映画『単騎、千里を走る。』の主演以降はCMの活動はありましたが、俳優のからは離れていました。

2012年に7年ぶりに205本目の作品となる、主演映画『あなたへ』で俳優に復帰し、翌年の2013年10月には「文化勲章」を受賞。

その後、主演映画『風に吹かれて』の話しも進んでいましたが、2014年の正月に普段から食事を残さない高倉さんが食欲不振となり、4月に検査入院すると、悪性リンパ腫と診断。

その後は、「入院中の姿を見せたくない」と公表はせずに親しい関係者のみにしか病状を知らせず、抗がん剤などの治療を続けましたが、2014年11月に入ると容態が急変。

2014年11月10日に、悪性リンパ腫のため他界。83歳でした。

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