田中邦衛の結婚歴や妻、子供は?俳優になったきっかけや死因・晩年。学歴・経歴

映画「若大将」シリーズの青大将役やドラマ「北の国から」などで知られる俳優の田中邦衛さん。
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻、子供はA?
晩年や死因は?

今回は俳優のさん田中邦衛をリサーチしてみました。

田中邦衛の学歴・経歴 元中学校教師

名前   田中邦衛
生年月日 1932年11月23日
没年月日 2021年3月24日(88歳没)
出身   岐阜県土岐郡土岐津町(現・土岐市)
身長   167cm
血液型  O型

7人兄弟の4番目で次男として生まれました。実家は100年以上続く美濃焼の窯元で、忙しい時いは4~5人の人を雇っていたといいます。
子供の頃はイタズラっ子で、よくイタズラをしては父親に蔵に入れられたり、長いすに縛られたりしていたそうです。。

中学校は多治見市立多治見中学校を卒業。
中学時代はほとんど勉強はせず、成績は200人中194位で素行も悪く、1年生の時にタバコを吸って見つかり、父親が学校に呼びだされました。

高校は広池学園高校に進学。
千葉県柏市光ヶ丘にある男女共学の私立高校で、1951年に改称され校名は麗澤高校になっています。

『成績はよくないし、悪いことはやるしで、しつけが厳しいところへやろうってことで、親父が知ってる麗沢高校へやらされたんすよ。』

全寮制で4人部屋。入学当初は鑑別所にでも入れられたように感じていたといいます。

高校卒業は、麗澤短期大学・英語科に進学。
エスカレーター式で内部進学しました。
大学時代も寮生活で、短大では教員免許を取得しています。

大学卒業後は、実家に戻り兄と共に茶碗屋をしていました。
茶碗屋を始めて間もなく、小学校の時の先生に、

『新制中学の先生が足りないから、お前、やってみないか』

と誘われ、地元多治見市内の中学校の代用教員として勤務しました。

『黒板に発音記号なんか書いてると、生徒に“先生、間違えてるよ”っていわれるんです。そうすると、オレ、“悪い、悪い”ってすぐにあやまっちゃう。権威のない先生だったなあ』

担当教科は英語、国語、体育の3教科で、特に英語は忘れていて、授業の前日に必死に勉強しましたが、生徒に間違いを指摘されることも多かったといいます。

教師は10ヶ月で退職し、その後は俳優の道に進みました。

田中邦衛が俳優になったきっかけ

田中邦衛さんが芝居に出会ったの短大在学中でした。

『遊び仲間に演劇青年がいて、そいつの影響で興味をもったんです。ほかに趣味はなかったもんすから、夢中になって……』

在学中に俳優座養成所の試験を受験しましたが不合格。翌年にも再度挑戦しましたが不合格でした。

俳優は諦めて短大卒業儀は実家に戻り、中学教師をしていましたが、教育者としての自信がなくて生徒を叱れず、教師を辞めようと思った時に、諦めた俳優の夢が再び膨らみ、教師を辞めて3度目の入所試験を受けると合格。3度目だったことから、試験官だった女優の東山千栄子さんには、

『あなた、またいらしたの』

と言われたといいます。

3年間の養成所生活を経て、47人中3人の狭き門を突破し、正式に俳優座の座員に昇格しました。

青大将でブレイク

俳優座の座員に昇格した後も、当初はほぼ無収入で家庭教師やサンドイッチマン、ポスター張りのアルバイトで生計を立て、住んでいたのは2畳間。みかん箱の机を置くとまっすぐには寝られず、斜めに寝ていたといいます。
朝は10円のコッペパン、昼と夜は40円のとサンマの開き定食という食生活を3年続け、1957年公開の『純愛物語』で映画デビュー。
以降は脇役として認められるようになり、1961年に加山雄三さんの若大将シリーズ『大学の若大将』に若大将のライバル青大将役で出演。
若大将の敵対心を燃やすものの、毎回軽くいなされる憎めキャラクターを好演しブレイク。
29歳の時でした。
以降は若大将シリーズの不動のレ牛yラーとなり、1981年の『帰ってきた若大将』まで17作に出演しました。

1965年4月の映画『網走番外地』では高倉健さん演じる主人公・橘真一を慕う舎弟をコミカルに演じ、1973年から始まった『仁義なき戦い』ではそれまでのイメージを一新するずる賢いヤクザ・槙原政吉を演じ、完結編まで4作に出演。脇役の地位を確固たるものにしました。

1973年には俳優座を退座し、以降はフリーで活動しました。

「北の国」からで全国区の人気

1980年以降は映画出演が減り、1981年からはフジテレビ系『北の国から』シリーズでの葛藤を持ちつつも2人の子を温かく見守る父親・黒板五郎役を演じ全国的な知名度を獲得。49歳の時でした。

24話の連続ドラマで放送され、最高視聴率は最終話の21.0%。
その後は1983年からスペシャルドラマとして製作さ、1989年3月の『北の国から’89帰郷』では初じめて30%を超え、33.3%を記録。
歴代最高視聴率は最後に放送された2002年9月の『北の国から 2002遺言 前編』で38.4%でした。

田中邦衛の結婚歴や妻

田中邦衛さんの結婚歴は1度で、1963年、30歳の時に結婚。妻は一般女性の康子さん。

『第一印象はよそよそしい女の子って感じだったな。おみやげにまんじゅうを買っていっても、うれしそうな顔をしないし……。でも、ミシンを踏んだり、夕方の買い物に出かけたりするのを見て、いいなあって思ってたんです。平凡なところに惚れたのかな』

妻の姉が俳優座の同期で、彼女の家で夕食をご馳走になったもことがあり、その時に出会ったそうです。

それまで女性を誘ってうまくいったことはなく、「OKしてくれればもうけもの」という気持ちでプロポーズをすると、承知してくれたといいます。

『彼女の家にせっせと通って、彼女の親と花札をしたりしてゴマをすり、結婚二か月前から、ちゃっかり住みついてしまった。』

結婚後もしばらくは妻の家に住んでいたといいます。

田中邦衛の子供

田中邦衛さんの子供は娘が2人です。

長女は淳子さんといい、結婚の翌年の1964年に誕生。
高校時代にアメリカのワシントン州に交換留学生として1年間留学を経験し、大学は上智大学外国語学部英語学科を卒業。

1988年にNHKに記者として入局し、ワシントンDC特派員、国際部サブデスク、横浜放送局を経て、2006年にNHK初の女性海外支局長としてシドニーに赴任。
2013年2月から3年間アメリカ合衆国ワシントン支局で女性初の支局長を務め、国際放送局国際企画部長を経て2020年4月には広報局長に就任しました。
結婚して子供の1人いるといいます。

田中邦衛の晩年や死因

田中邦衛さんは2010年公開の映画『最後の忠臣蔵』に78歳で出演して以降は、俳優としての活動はしていませんでした。

2012年6月に北の国から』でも共演した地井武男さんの葬儀に出席したのが、最後の公の場の姿でした。

翌年の20123年11月には週刊女性』で「長ゼリフが入らない」ことから仕事の依頼を断っていると報じられ、同月のには『週刊女性』で「長ゼリフが入らない」ことから仕事の依頼を断っていると報じられ、同月のフジテレビ系情報番組『ノンストップ!』では妻の康子さんが電話取材に応え、

『(仕事は)体力的に厳しいと思います』

と話し、2017年11月の取材には、

『車椅子生活が続き俳優としての復帰に関しては解らない』

とコメントていました。

2021年3月24日、老衰のために死去。88歳でした。

葬儀本人の希望で、家族葬の形で行われました。

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