植木等の結婚や妻・子供は?死因、晩年や学歴・経歴

映画『無責任シリーズ』など活躍した植木等さんの学歴や経歴は?

デビューしたきっかけは?

結婚歴や妻、子供は?

死因や晩年は?

今回はクレージーキャッツの植木等さんをリサーチしてみました。

植木等の学歴・経歴

名前   植木等
生年月日 1927年2月25日
没年月日 2007年3月27日(80歳没)
出身   愛知県名古屋市
身長   165cm
血液型  AB型

父親は父親は浄土真宗の僧侶。三男一女の三男。

3歳の時父親が真宗大谷派常念寺の住職となったことから三重県度伊勢市)に移住し、小学校は伊勢市立四郷小学校に入学。

長兄は戦死し、次兄も病死したことから小学6年生の時に僧侶の修業のために上京し、駒込の真浄寺へ小僧として入門しました。

中学校、高校は旧制京北中学校を卒業。

東京都北区赤羽台にあった私立の男子校で、2011年に 京北学園が学校法人東洋大学に再統合され閉校になっています。

学生時代は陸上部に所属し、100mを11秒4で走ったといいます。

高校卒業後は、1944年に東洋大学・専門部国漢科に進学。

東京都文京区白山に本部がある私立大学。

「専門部」は旧制の短期課程の教育機関で、専門部の卒業後は東洋大学文学部に入学し、1950年に卒業しました。

大学時代にも陸上部に所属し短距離をやっていました。

植木等がデビューしたきっかけは?

大学時代に音楽に目覚め、陸上部に所属しながら軽音楽同好会を作り、軍需工場等を慰問を始めました。

バンドボーイ兼見習い歌手としてアルバイトも始めると、「おいセイガク、ちょっと来い!」と声をかけられ、知り会った相手は後に「クレイジーキャッツ」で一緒に活動するハナ肇さんでした。当時、植木等さんは19歳で、ハナ肇さんは3歳年下で16歳でした。

1946年に テイチクレコードの新人歌手コンテストに応募し合格。

1947年になると、NHKラジオで歌うようになり、ギターを始め、正統派の歌手を目指しました。

バラエティ番組でブレイク

1950年、大学卒業後に『萩原哲晶とデューク・オクテット』でギタリストとして活動した後、1952年に自身のバンド『植木等とニュー・サウンズ』を結成。

1954年にフランキー堺さんに誘われ、『フランキー堺とシティ・スリッカーズ』に参加すると、コメディの能力が開花。

フランキー堺さんが俳優に転向した後は、ハナ肇さんがリーダーを務め、谷啓さんらのいたキューバン・キャッツに移籍。

1957年に、バンド名を『ハナ肇とクレージーキャッツ』に改名。

ジャズ喫茶で活動しコメディ路線で人気を集め、1959年にバラエティ番組『おとなの漫画』(フジテレビ)に出演。1961年に音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』に出演すると、歌だけでなく「お呼びでない?…こりゃまた失礼いたしました!!!」などのギャグで大ブレイク。

1962年には映画『ニッポン無責任時代』に出演すると大ヒットを記録し、以降は「無責任男」のキャッチフレーズで多くの映画出演。出演した映画『クレージー映画』と呼ばれ多くの映画が大ヒット。曲も『スーダラ節』『ドント節』をはじめ数々のコミックソングもヒットさせました。

植木等は本当は真面目な性格だった

「無責任男」でしらる植木等さんですが、本当の性格は真面目で、正統派の歌手になりたかったことから、自堕落なラリーマンの姿を描いた「スーダラ節」を渡されたと時には、

『こんな歌が流行ったらとんでもないことになる』

と歌うことに抵抗があったといいます。

住職の父親に「こんなひどい歌を歌わされそうだ」と相談し歌って聞かせると、父親は、

『すばらしい曲だ』

と絶賛、

父親は「わかっちゃいるけどやめられない」というのは親鸞の生き様に通じるといい、親鸞は90歳まで生きて、やってはいけないということを最後までやり、親鸞の教えに「悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり」というのがあり、この言葉は仏に身を捧げても、悪い心を完全に断つことは出来ない自身を振り返っての言葉で、それがまさに「わかっちゃいるけどやめられない」だと言ったといいます。

父親に背中を押され、「スーダラ節」を歌うと大ヒット。

この父親のしは、植木さんが歌手として生きていく上で生涯の支えにになったといいます。

植木等の結婚歴や妻、子供

植木等さんが結婚したのは1948年頃で、大学在学中の21歳の頃でした。

妻の名前は登美子さん。

子供は一男三女の4人。

長男の植木廣司さんは1948年生まれで、比呂公一の名前で作曲家をしており、若い頃は歌手として数多くのCMソングを歌っていました。

三女の植木裕子さんはバレリーナをしていました。

植木等の死因や晩年

植木等さんは2007年3月27日に呼吸不全で他界。80歳でした。

亡くなる10年前の1997年頃に肺気腫を患い、その後は前立腺癌も発症。

治療しながら芸能活動を続け、遺作は2007年6月に公開された映画『舞妓Haaaan!!!』で西陣の会長・斉藤老人 役を演じました。

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