倍賞美津子さんは茨城県出身の女優。
生い立ち経歴や高校、などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴があり元夫はアントニオ猪木さんですが馴れ初めはや離婚理由は?
子供はいる?
今回女優のは倍賞美津子のさんをリサーチしてみました。
目次
倍賞美津子の学歴・生い立ち・経歴
名前 倍賞美津子
生年月日 1946年11月22日
出身 茨城県
身長 163cm
所属 ロータス・ルーツ
小学校・北区立滝野川第六小学校
中学校・北区立紅葉中学校
各種学校・松竹音楽舞踊学校
父親は都電の運転士。
母親は女性で初めて採用された都電の車掌。
茨城県生まれ、東京都北区滝野川育ち。
5人兄弟の三女で5歳上の姉は女優の倍賞千恵子さん。
疎開先の茨城県の岩瀬で生まれ、4歳の時に東京都北区滝野川に引越し長屋で暮らしました。
小学校は北区立滝野川第六小学校、中学校は北区立紅葉中学校を卒業。
大人しかった姉の倍賞千恵子さんとは違い、倍賞美津子さんは勝気な性格だったそうです。
弟がいじめられると、代わりに相手をやっつけたりと『女のガキ大将』だんだとか。
中学卒業後は高校には進学せず、姉の倍賞千恵子さんの影響で、1962年、松竹音楽舞踊学校に入学。
1965年、松竹歌劇団に第18期生として入団。
同年、グランドレビュー『東京踊り』でデビュー、新人賞を受賞しました。
倍賞美津子 姉妹共演で映画デビュー
女優デビューの翌年の1966年4月、『でも好きだった』をリリースして歌手デビュー。
歌手としては1985年までに23枚のシングルをリリースしていますがこれといったヒット曲はないようです。
1967年9月公開の映画『純情二重奏』で映画初出演。
同映画で実姉の倍賞千恵子さんと異母姉妹を演じました。
1969年公開の映画『人斬り』に主演の勝新太郎さん演じる土佐藩郷士・人斬り以蔵の馴染みの女郎・おみの役で出演。
同映画は勝新太郎さんから直接電話でオファーがあったそうです。
偽者かとも思い怖いかったので友人に付き添ってもらって出向くと、本物の勝新太郎さんがて驚いたといいます。
倍賞美津子さんは同映画で京都市民映画祭の新人賞を受賞。
1979年4月公開の映画『復讐するは我にあり』で
第3回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞
第22回ブルーリボン賞 助演女優賞
を受賞し女優として地位を確立。
1984年にも映画『陽暉楼』、『楢山節考』で
第7回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞
を受賞しています。
1986年には映画『恋文』、『友よ、静かに瞑れ』で、
第9回日本アカデミー賞 最優秀主演女優賞
を受賞しました。
倍賞美津子とアントニオ猪木の馴れ初めは?
倍賞美津子さんとアントニオ猪木さんが結婚したのは1971年10月。
24歳の時でした、
夫のアントニオ猪木さんは3歳年上。
結婚時は28歳。
倍賞美津子さんとアントニオ猪木さの馴れ初めは元力士でプロレスラーだった豊登道春さんの紹介。
『そもそものきっかけは、倍賞が高級車・センチュリーを蹴り上げたことだった。』
引用 https://bunshun.jp/
銀座の路上に止めてあった同車を酒に酔った倍賞美津子さんがキックしたところ、ちょうど戻ってきた車の持ち主の豊登道春さんと知り合ったそうです。
後日、後輩のアントニオ猪木さんに『この倍賞って子は面白いんだ』と紹介したといいます。
倍賞美津子 結婚式は1億円
倍賞美津子さんとアントニオ猪木さんの結婚式・披露宴の総額は1億円と報じられたそうで、現在の価値だと4億円ともいわれています。
会場は同じ1971年に開業した新宿京王プラザホテルで、披露宴の出席者は約1000名でした。
用意した婚約指輪は1500万円のキャッツアイだったといいます。
倍賞美津子とアントニオ猪木の離婚理由は?
倍賞美津子さんとアントニオ猪木さんが離婚したのは1988年。
結婚生活は17年で、倍賞美津子さんが42歳の頃の離婚でした。
結婚式から数ヵ月後にアントニオ猪木さんは所属していた日本プロレスとの度重なる確執から追放処分を受けました。
そんなアントニオ猪木さんに倍賞美津子さんは、
『あんたはおっちょこちょいね。式の費用を払ってもらってから会社と喧嘩すれば良かったのに。』
と笑い飛ばしたといいます。
1972年には新居の一戸建てを改造し『新日本プロレス』を旗揚げ。
1980年代になると、副業として始めた事業が失敗し負債は数十億円。
この頃から夫婦仲は悪くなっていき、1985年9月に倍賞美津子さんと萩原健一さんの熱愛が写真週刊誌によって報道され、後に離婚に至りました。
倍賞美津子の子供は?
倍賞美津子さんの子供は娘が1人。
名前は寛子さん。
1974年8月に誕生しました。
元ミュージカル女優で初代アニーのWキャストの1人を務めました。
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