若尾文子さんは東京都出身の女優。
生い立ち、経歴や高校などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫、子供は?
今回は女優の若尾文子さんをリサーチしてみました。
若尾文子の学歴・生い立ち・経歴
名前 若尾文子
生年月日 1933年11月8日
出身 東京都
身長 155cm
所属 若尾事務所
高校・第二女子高校
大学・進学していません
東京府東京市荒川区(現在の東京都荒川区)生まれ。
5人兄姉の末っ子。
戦時中は父親の仕事の関係で宮城県仙台市に疎開。
小学校は仙台市立連坊小路小学校を卒業。
1945年7月、11歳の時には仙台大空襲を体験。
高校は宮城県第二女子高校に入学。
宮城県第二女子高校は現在の宮城県仙台二華高校。
宮城県仙台市若林区連坊に私立の高校で現在は男女共学です。
現在の偏差値は68。
宮城県ではトップ5に入る進学校です。
学生時代は読書ばかりして、無口でしゃべらなかったことからあだ名は『石仏』。
高校時代からその美貌は有名だったといい、仙台を舞台にした井上ひさしさんの自伝的作品『青葉繁れる』のヒロイン・若山ひろ子のモデルとされていますが、若尾文子さん本人は否定しているといいます。
高校は中退し女優の道に進みました。
若尾文子が女優になったきっかけは?
若尾文子さんが女優になった経緯は2つの説があるようです。
1つは仙台に疎開中に長谷川一夫さんの舞台を観て感激し、舞台終演後、楽屋に行き
『私も女優になりたい』
と長谷川一夫さんに直訴。
その後、東京に戻り大映ニューフェイスへ応募し合格したという説。
もう1つは仙台座という劇場の楽屋口に檻に入った小熊を見つけ、可愛いので見ていると、長谷川一夫さんと山田五十鈴さんが楽屋口から裏に出て、長谷川一さん夫が親しげに声を掛けてくれたので、子供なりのリップサービスのつもりだったのか、
『女優になりたいんです』
と言うと、長谷川一夫さんが、
『学校を卒業してからいらっしゃい』
と言われ話しはそこで終わり、東京に戻ると母親代わりだった姉の夫が大映のニューフェイスに若尾文子さんの写真を送ってしまい
、受けることになり合格したという説です。
1951年にオーディションに合格し、大映の第5期ニューフェイスとして入社。
当時17歳でした。
若尾文子 デビュー後
映画界に入った翌年の1952年に、急病で出演出来なくなった久我美子さんの代役として映画『死の街を脱れて』で女優デビュー。
『私、このまま生きてていいのかな』
映画の撮影現場は職人ばかりで、特に監督は個性も強く、職人の極みで本当に極限まで精神的に追い詰められたといいます。
問題を突き付けられ、全てを否定され必死にもがいたそうです。
1953年2月公開の主演映画『十代の性典』大ヒットし知名度は急上昇。
しかし、その過激な内容からバッシングもありマスコミからは『性典女優』とも呼ばれたといいます。
同年8月公開の映画『祇園囃子』で演技力を発揮し性典女優の汚名を返上。
その演技力は高く評価されました。
1961年7月公開の映画『女は二度生まれる』で、
第12回ブルーリボン賞・主演女優賞
第35回キネマ旬報・主演女優賞
を受賞。
ブルーリボン賞・主演女優賞は1965年、キネマ旬報・主演女優賞は1965年、1968年にも受賞しています。
その後も大映の看板女優として260本以上の映画に主演。
1971年の大映倒産以降はテレビドラマでも活躍しました。
近年はソフトバンクのCMの『白戸家』のおばあちゃんとして出演しています。
若尾文子の結婚歴や夫、子供は?
若尾文子さんの結婚歴は2回。
最初の結婚は1963年。
32歳の時でした。
夫は商業デザイナーの西舘宏幸さん。
1959年にドイツ・ミュンヘンで開かれる映画祭に出席するため若尾文子さんはにヨーロッパを訪れ、パリに立ち寄った時に現地でガイドを務めたのが西舘宏幸さんでした。
西舘宏幸さんは商業デザイナーになるためにパリに留学中だったそうです。
パリでは挨拶した程度でしたが、何かを感じた若尾文子さんから手紙を送り文通が開始。
3年後にパリで再会し西舘宏幸さんからのプロポーズで結婚しました。
離婚したのは1969年。
結婚6年目でした。
離婚は夫の西舘宏幸さんがなかなか応じず、若尾文子さんが慰謝料を払うかたちで離婚が成立したそうです。
若尾文子さんに子供はいませんでした。
若尾文子が再婚した夫
若尾文子さんが再婚したのは1984年12月。
51歳の時でした。
夫は建築家の黒川紀章さん。
年齢は1歳年下。
1976年にテレビ番組『すばらしき仲間』で対談したのがきっかけで2人は出会いました。
出会った当時、黒川紀章さん既婚者で娘がおり、娘が20歳になるまで妻の離婚に応じなかったため結婚までに7年かかったそうです。
夫の黒川紀章さんは2007年に73歳で亡くなりました。
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