神奈川県出身の俳優・黒沢年雄さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供はいる?
今回は俳優のの黒沢年雄さんについてリサーチしてみました。
黒沢年雄の学歴・生い立ち・経歴
名前 黒沢年雄
生年月日 1944年2月4日
出身 神奈川県
身長 175cm
血液型 AB型
所属 夢グループ
小学校・横浜市立西前小学校
中学校・日本大学中学校
高校・・日本大学高校(中退)
大学・・大学には進学していません
神奈川県横浜市出身。
父親はボイラー技師。
3人の弟がいる、4人兄弟の長男。
小学校は横浜市立西前小学校を卒業。
小学校の時にプロ野球選手に憧れ、野球を始めました。
中学校は日本大学中学校、高校は日本大学高校を卒業。
日本大学中学校、高校は神奈川県横浜市港北区箕輪町にある男女共学の私立高校。
現在の日本大学中学校の偏差値は58。
日本大学高校の偏差値は66。
中学、高校時代は野球部に所属。
高校生の16歳の時に母親が40歳の若さで他界。
『弟たちを頼んだよ…』
というのが母親の最後の言葉だったといいます。
プロ野球選手を目指していましたが、高校生の時に法政二高との練習試合で投手だった後にプロ野球選手になる柴田勲投手と対戦し、ヒットを打ったものの、その時バットがへし折られていたことと、先輩たちが全く歯が立たなかったことから、プロ野球選手は無理かも知れないと思い挫折。
高校は中退し、芸能界を目指しました。
黒沢年雄が俳優になったきっかけは?
黒沢年雄さんが俳優を目指した理由は、
『有名になって金持ちになりたかったから』
だったからだといいます。
黒沢年雄さんは当初、歌手として芸能界入りを目指しました。
高校生の時、高校の2年先輩で高校生時代からすでに歌手活動をしていた坂本九さん、同じ野球部の2年先輩で後に歌手になった飯田久彦さんに影響されて、自分も歌手になりたいと思い歌手を目指しました。
高校在学中に、ジャズ喫茶の銀座ACBでオーディションを受けて合格。
給料8千円のバンドボーイの提案を受けましたが、
『自分には才能がある』
と思い込み断り、アルバイトをしながら歌手デビューを目指すも叶わず、知り合いの紹介で横浜の企業『築港興業』に入社。
その後も芸能界を目指し、各映画会社のニューフェース募集の告知があるたびにオーディションに通い続け、1964年、東宝ニューフェイスの後身の第4期オール東宝ニュータレントとして東宝に入社。
20歳の時でした。
黒沢年雄 デビュー後
黒沢年雄さんは1964年9月公開の映画『女体』で俳優デビュー。
同年に2本、翌年の1965年にも2本、1966年には5本の映画に出演。
1966年8月には『僕の恋人どこにいる』をリリースし歌手デビュー。
歌手としては2019年1月までに36作のシングルをリリースしています。
1978年2月にリリースした『時には娼婦のように』大ヒットし、週間オリコンチャート2位を獲得しました。
1970年代になると活動の場を映画からドラマにシフトし、1980年からは『ザ・ハングマンシリーズ』(テレビ朝日系)に出演し、人気を獲得しました。
40代からはバラエティ番組にも多数出演。
2010年代後半からは株式会社夢グループと提携し、同社が運営するコンサートに出演し、全国各地を回っています。
黒沢年雄の結婚歴や妻は?
黒沢年雄さんんが結婚したのは1976年。
32歳の時でした。
妻は元モデルの街田リーヌさん。
年齢は4歳年下。
妻の街田リーヌさんは石川県育ち。
本名は黒沢街子。
成人してからモデルを始め、。パリなどでモデルショーなどにも出演しました。
馴れ初めは不明でしたが、黒沢年雄さんも猛アタックの末に結婚に至ったといいます。
黒沢年雄に子供はいる?
黒沢年雄さんの子供は1人のようです。
子供は娘。
1977年9月に誕生しました。
名前はレイラさん。
三井万裕美の芸名で女優をしていましたが、演技を学ぶためにアメリカに留学。
アメリカで芸能活動の持ち、アメリカ人男性と結婚しています。
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