東京出身の丹波義隆さん
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚や妻は?
子供は息子?
今回は俳優の丹波義隆さんについてリサーチしてみました。
丹波義隆の学歴・生い立ち・経歴
名前 丹波義隆
生年月日 1955年7月13日
出身 東京都
身長 173cm
所属 カートプロモーション
高校・杉並高校
大学・成城大学文芸学部中退
東京都杉並区出身。
父親は俳優の丹波哲郎さん。
母親は丹波義隆さんが3歳の時に、急性灰白髄炎(ポリオ)を発症し、33歳の若さで車椅子の生活になています。
母親は難病を抱えても『仕方ない』と前向きに生きる女性だったそうです。
『丹波哲郎』というのは商品だから、商品を傷つけてはいけないって。
引用 https://gendai.ismedia.jp/
母親は俳優の丹波哲郎さんが車椅子を押そうと嫌がったといいます。
子供の頃にはピアノ、フルート、絵画などを習っていました。
高校は杉並高校に進学。
杉並高校は東京都杉並区成田西に男女共学の都立高校。
現在の偏差値は55。
『これからの時代には逞しさが必要』
と母親から要望があったそうで、父親は有名な人気俳優でした中学は区立、高校は都立に通ったそうです。
高校時代の夢はパイロットでしたが、近眼になてしまい挫折。
大学は成城大学文芸学部に進学しましたが、中退しました。
丹波義隆 父親は俳優・丹波哲郎
丹波義隆さんの父親は俳優の丹波哲郎。
海外映画にも出演し、1964年にイギリス映画の『第七の暁』1967年には、世界的なヒット作『007は二度死ぬ』で国際的に認知され活躍しました。
1968年4月からドラマ『キイハンター』のボス役を演じたことでも知られます。
キャスティングされた時点で、演じる役は自分に合う役であるはずなので役作りは一度もしたことがないという豪快な性格。
心霊学と霊界に造詣を持ち、心霊研究もしており、『丹波哲郎の大霊界』シリーズも自身で製作しました。
丹波義隆が俳優になったきっかけは?
丹波義隆さんが高校在学中の1973年に『製作費節約のため』という理由で出演を頼まれ、父親の丹波企画のプロデューサーが製作した映画『二十歳の原点』で映画デビュー。
主人公の弟役でした。
当時、人前で喋ることが好きではなく、俳優になるつもりはありませんでしたが、
『俳優になればパイロットにもなれるぞ。』
の一言と、父親の職場を覗く程度の気持ちで、映画『青葉繁れる』のオーディションを受けたところ主演に抜擢。
『青葉繁れる』は1974年9月に公開されました。
この作品をきっかけに俳優として演じる楽しさを知り、そのまま俳優の道へ進みました。
丹波義隆 ジャッカー電撃隊
1974年に映画で俳優デビュー後、1975年、NHKの朝ドラ『水色の時』でテレビドラマ初出演。
1977年1月公開の映画『アラスカ物語』で父親の丹波哲郎さんと共演。
同年4月から放送されたテレビ朝日系特撮ドラマ『ジャッカー電撃隊』で主演の桜井五郎 ・スペードエース役を演じました。
『ジャッカー電撃隊』は2022年現在で46作目のスーパー戦隊シリーズに2作目。
第1作目の『秘密戦隊ゴレンジャー』でもアカレンジャー役のオファーが来ていましたが、変身ポーズなどからあまり乗り気ではなく、
『オートバイ免許を取得していない』
と辞退していましたが、プロデューサーに、
『今回のヒーローは自動車に乗る』
と言われ断る理由がなくなってしまい出演したといいます。
1990年以降はドラマを中心に活躍しました。
近年はあまり俳優はしていないようで、トークイベントや講演活動をしているようです。
丹波義隆の結婚や妻は?
丹波義隆さんが結婚したのは1988年1月。
32歳の時でした。
妻は元女優の丹波久美さん。
当時の芸名は田中久美。
年齢は11歳年下。
妻の久美さんは1987年10月公開の映画『おれは男だ! 「完結編」』で女優デビュー。
妻の久美さんが演技の基礎を学び直すため、丹波哲郎さんが運営していた丹波道場に入ったことで出会っったそうです。
丹波義隆の子供は息子?
丹波義隆さんの子供は3人。
息子が1人と娘が2人です。、
名前は長男が大士さん、長女がゆうさん、次女があいさん。
子供は丹波義隆さんと旅番組などで共演はありましたが、芸能活動はしていないようです。
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