奥田瑛二と妻の安藤和津の馴れ初めは?子供は娘!学歴や経歴

愛知県出身の俳優・奥田瑛二さん。

高校、大学のどの学歴や経歴は?

妻は安藤和津さんですが馴れ初めは?

子供は2人の娘?

今回は俳優の奥田瑛二さんについてリサーチしてみました。

奥田瑛二の大学などの学歴・経歴

名前   奥田瑛二
生年月日 1950年3月18日
出身   愛知県東春日井市
身長   175cm
所属   ゼロ・ピクチュアズ

小学校・春日井市立高座小学校

中学校・春日井市立高蔵寺中学校

高校・東邦高校

大学・明治学院大学法学部(中退)

本名は安藤豊明(あんどう とよあき)

実家は氷屋と喫茶店を経営。

父親は元春日井市議会議員。

3人兄弟の真ん中。

兄弟は姉と弟。

小学校は高座小学校、中学は高蔵寺中学校。

中学時代は野球部に所属。

奥田瑛二さんは子供の頃は小柄で、野球をやれば背がおおきくなるだろうとの幻想を抱いて野球部に入部したそうです。

しかし、身長は伸びず、高校に入った時は152cmでした。

高校は東邦高校に進学。

東邦高校は愛知県名古屋市にある男女共学の私立高校。

現在の偏差値は50~60

高校時代はラグビー部に所属。

高校3年間で152cmだった身長が174cmまで伸びたそうです。

高校卒業後は俳優になりたいと秘めた思いがありましたそれを父親に隠して、東京の大学に進学を希望。

当初は名古屋の大学に行くように言われましたが説得し、東京で衆議院議員の住み込みの書生をすることを条件に許可されました。

大学は明治学院大学法学部に進学。

同時に父親の伝で丹羽兵助代議士の秘書となり、住みこみの書生生活を送りました。

大学時代は演劇部に所属。

その後、大学も秘書も辞めて本格的に俳優を目指しました。

奥田瑛二が俳優を目指したきっかけ

奥田瑛二さんが俳優という職業し目指したのは小学5年生のときに映画『丹下左膳』を見たことがきっかけでした。

『丹下左膳』は時代劇で、豪快さに惹かれたといいます。

それからずっと映画俳優になりたいという思いを秘めて生きていたそうです。

奥田瑛二さんは中学生まで1身長が50cm代と小柄で、身長を伸ばしたいと中学では野球部、高校ではラグビー部に入部しましたが、身長を伸ばしたかったのも俳優になるためでした。

高校で20cm以上身長が伸び、『よし、映画俳優になれる』と思ったそうですが、東京の大学への進学を父親は反対。

『役者になりたい』と言えば怒られるので、父親に

『東京の大学に行って見聞(けんぶん)を広めたい。卒業したら25歳で市会議員になって、30歳で県会議員になって、40歳から50歳の間に国会議員になる』

と言ったそうです。

結果、東京で衆議院議員の秘書を住み込みで務めることじを条件に許可され、明治学院大学法学部に進学しました。

奥田瑛二 俳優デビューからホームレス

奥田瑛二さんは大学進学後、演劇部にも在籍し、議員秘書もしていましたが、悩んだ末に大学は中退し議員秘書も辞めて本格的に俳優も道に進みました。

その後、劇団を探しますがタイミングが悪く、オーディションを受けることも出来なかったといいます。

高校の先輩で俳優の天知茂さんのところに1ヶ月間通い続けて付き人になる許しをもらいました。

奥田瑛二の芸名は天知茂さんが占い師に依頼して名付けてもらったものだそうです;

2年ほど付き人を続けましたが将来が見えず、夜逃げ同然に飛び出しました。

生活のために夜の世界で働き、俳優になるチャンスがあるかと思い、お客さんの紹介でモデルにも挑戦。

モデル時代はCMなどにも出演しるようになりますが、俳優の夢を捨てられずモデルを辞め、当時のマネージャーが協力してもらい、

1976年10月、日本テレビ系特撮ドラマ『円盤戦争バンキッド』の主人公・天馬昇のバンキッドペガサス役でデビュー。

主演したものの『円盤戦争バンキッド』は子供向けドラマで、大人向けのドラマのオーディションには全く受からなかったそうです。

そのうち、アパートは家賃滞納で追い出され、一時期は代々木公園でホームレスのような生活をしていまいした。

『代々木公園のホームレス第1号だったんです。自称ですけど』

この頃は、品川岸壁の荷揚げ、スナックのウェイターなどの職を転々としながら、食い繋いでいたそうです。

奥田瑛二 人気俳優から映画監督

1979年4月公開の映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』で映画デビュー。

同映画での演技が評価され、同年12月公開の映画『もう頬づえはつかない』で桃井かおりさんの相手役で出演。

1985年8月から放送されたTBS系ドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』。翌年のTBS系ドラマ『男女7人夏物語』などの出演で若い女性を中心に人気を獲得しました。

1986年10月公開の映画『海と毒薬』で映画単独初主演。

1989年10月公開のの主演映画『千利休 本覺坊遺文』では

第13回 日本アカデミー賞 優秀主演男優賞

を受賞しました。

奥田瑛二さんが『監督やるぞ!』と思いたったのは42歳のとき。

周囲に宣言しましたが、経験不足から自身が持てずに挫折。

その後は基礎から映画を学び、48歳のときに助監督を経験し、2001年の50歳のとき映画『少女~AN ADOLESCENT』で映画監督デビューしました。

奥田瑛二と妻の安藤和津の馴れ初めは?

奥田瑛二さんが安藤和津さんと結婚したのは1979年1月。

妻の安藤和津さんは2歳年上で婿養子です。

馴れ初め・出会いは誕生パーティー。

奥田瑛二さんがホームレス生活を送っているころに友人誘われていった誕生パーティーで出会いました。

安藤和津さんは誕生パーティーの主役の友人で参加していました。

パーティーは朝4頃終わり、外は雨が降っていたそうです。

奥田瑛二さんは安藤和津さんに話しかけ、家の場所を聞くと、行き先が近かったのタクシーに一緒に乗せて欲しいとと頼み、安藤和津さんには驚いたような顔をされましたが、結局は乗せてもらえました。

そのタクシーの中で、次の日に六本木の喫茶で会う約束をしたそうです。

安藤和津さんには知り合ったころ、

『あなたはサンマの腐った目をしている』

と言われたといいます。

安藤和津さんはホームレスだった奥田瑛二さん
の面倒をみるようになり、住む場所を手配し、健康のためにとプールにも連れて行ってくれたといいます。

安藤和津さんの母親にも、『正直な人』だと気に入られ、安藤和津さんの自宅で一緒に麻雀をしていたときに奥田瑛二さんは倒れました。

歯から細菌が入ったことが原因だったそうです。

それから1ヶ月半、安藤和津さんの家で看病してもらい、安藤和津さんが奥田瑛二さんのパンツを洗うなど面倒をみいる姿を見た母親に『あなったち結婚しなさい』と言われたそうです。

結婚いわれたのは、知り合って5ヶ月で、8ヶ月後には結婚式を挙げていたそうです。

奥田瑛二の子供は2人の娘

奥田瑛二さんの子供は2人。

2人とも娘です。

長女の桃子さんが1982年3月、次女のサクラさんが1986年2月に生まれました。

長女の安藤桃子さんは映画監督。

次女の安藤サクラさんは女優をしています。

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