時代劇『必殺』シリーズの姑役などで親しまれた、名バイプレーヤーの女優・菅井きんさん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫、子供は?
今回は女優の菅井きんさんをリサーチしてみました。
菅井きんの学歴・生い立ち・経歴
名前 菅井きん
生年月日 1926年2月28日
没年月日 2018年8月10日(92歳没)
出身 東京府東京市牛込区(現・新宿区)
身長 155cm
血液型 B型
所属 株式会社仕事
小学校・東京市本村尋常小学校
中学校・頌栄高等女学校
高校・・頌栄高等女学校
大学・・進学していません
出生名は須斎公子(すさい きみこ)。
父親は織物の販売の仕事をしていました。
姉、妹、弟2人がいる5人兄弟の次女。
小学校は東京市本村尋常小学校を卒業。
本村尋常小学校は現在の現在の港区立本村小学校。
中学校、高校は、頌栄高等女学校を卒業しました。
東京都港区白金台にある私立の女子校で、現在の頌栄女子学院中学校・高校、現在の学校の偏差値は63。
完全中高一貫制のため、高校の生徒募集はありませんが、毎年、東京大学の合格者を出すレベルです。
高校卒業後は、大学などには進学せずに文部省総務課に就職し、東京帝国大学学生課で事務職員としても働いていました。
菅井きんが女優になったきっかけは?
文部省総務課時代の1946年、20歳の時に友達の誘いで舞台『人形の家』を観たことがきっかけで女優を目指すことを決意。
父親に相談すると、
『女優とは美しい女性がなるものだ』
と猛反対されましたが振り切って、1947年に東京芸術劇場研究所に入所したが、間もなく解散、劇団俳優座に移籍し女優としてスタート。
劇団俳優座時代に映画俳優としてスカウトされ、映画デビューしました。
菅井きん『必殺』シリーズで人気に
1951年に『風にそよぐ葦』で映画初出演、翌年の1952年には黒澤明監督映画『生きる』に陳情の主婦 役で出演。
1954年には『ゴジラ』に代議士 役で出演し、翌年の映画『愛のお荷物』でもほとんど同じ服装をした野党の議員役で出演しました。
1960年の『綴方教室』(TBS)でドラマ初出演、以降はドラマにも出演するようになりました。
30歳頃から老け役のオファーが舞い込むようになり、実年齢よりも20歳ほど年上の役を演じるのは当たり前だったといいます。
全国的に知られるようになったのは1973年から放送れた『必殺シリーズ』(テレビ朝日)、『婿殿!』といびる、姑・中村せん役を名演しました。
当時、48歳でで、主人公で婿の中村主水 役の藤田まことさんとは7歳違いでした。
いびる姑役で人気となり、役柄のイメージが強すぎたことから娘の縁談に響くのではと本気で心配したほどだったといいます。
菅井きんの死因と晩年
2010年に自宅で転倒し、大腿骨を骨折。
療養していましたが、それ以来、自分の足では歩けなくなったため2010年以降は女優として事実上引退していました。
2014年には朝の情報番組『ノンストップ』(フジテレビ)で4年ぶりにインタビューに答え、リハビリはしているものの、仕事復帰は諦めていると話し、これが公の場での最後の姿になりました。
2018年8月10日、心不全のため、東京都内の自宅で死去。92歳没。
遺作は2010年の大河ドラマ『龍馬伝』でした。
菅井きんの結婚歴や夫
菅井きんさんの結婚歴やは1度。
結婚したのは1950年、24歳の頃でした。
夫はの演劇・映画プロデューサーの佐藤正之さん。
年齢は8歳年上。
佐藤正之さんは明治学院大学卒業後、満州映画協会脚本部に入社。
シベリア抑留後の1948年に帰国し、同年に俳優座に入団、主に舞台や映画の企画、製作に携わりました。
同じ頃に菅井きんさんも俳優座に入団ており、2人は俳優座で出会ったようです。
佐藤正之さんは結婚後、俳優座で映画部長となり、俳優・仲代達矢さんを育て、1968年俳優座映画放送設立とともに社長に就任。
1985年には俳優座から独立して、芸能事務所・制作会社『株式会社仕事』を設立。
菅井きんさんも所属していました。
1996年12月16日に78歳で他界しています。
菅井きんの子供
菅井きんさんの子供は娘が1人。
名前は中子さん。
娘は92歳で菅井きんさんが亡くなった時、62歳と報じられており、30歳の頃に誕生したようです。
中子さんはアメリカで知り合った日本人男性と結婚し、子供が生まれ、子供も結婚し、菅井きんさんのひ孫もいたようです。
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