現在は本格的演歌歌手として人気の吉幾三さん。
大ヒット曲「俺ら東京さいぐだ」の場所のモデルはどこ?
発売後は苦情が殺到したそうですが、その理由は?
日本語ラップの元祖と言われていますが、作ったきっかけは?
この記事ではの吉幾三さんの「俺ら東京さ行くだ」のモデルの場所や、発売後の苦情の理由などについてをリサーチしています。
吉幾三の「俺ら東京さいぐだ」のモデルはどこ?
吉幾三さんの「俺ら東京さいぐだ」のモデルは場所は、吉さんの出身地の青森県北津軽郡金木町。
出身地の金木町の田舎ぶりに嫌気がさして不満をぶちまけるという自虐ソングで人気を博しました。
金木町は2005年の合併で廃止され、現在は五所川原市になっています。
廃止前の金木町の人口は約1万人。
太宰治さんの出身地で知られ、津軽三味線の発症の地とも言われています。
テレビ番組『秘密のケンミンshow』(日本テレビ系)の「津軽弁の聖地はどこか?」の企画で、住民の多くが「金木」と言い、金木町が津軽弁の聖地に認定されました。
発売後に苦情電話
「俺ら東京さいぐだ」は歌いだしから「テレビも無エ ラジオも無エ」という歌詞で、「信号無ェ ある訳無ェ 俺らの村には電気が無ェ」という一節もあります。
金木町は田舎ではありましたが、曲が発売されたのは1984年11月で、当然、電気もテレビある時代でした。
曲が発売されて人気になると、「テレビもラジオもないってどこにそんな村がある」などと苦情が殺到。
地元の金木町だけでなく、他のいろんな村から苦情の電話があたといい、。「今はテレビもラジオもある、ばかにするな」との苦情の電話に吉幾三さんは「子どもの頃はなかっただろうが」と反論しケンカになったこともあったといいます。
この曲は1952年生まれの吉幾三さんが東京に出てきた、1968年頃のことを歌詞にしたといいます。
「nlab.itmedia」が金木町の当時を知る人たちに取材したところ、
『確かに車はあまり走ってなかったし、信号もなかった。車の往来が少ないので、金木町の中心あたりの交差点も信号はなかったが、大丈夫だった』
引用 https://nlab.itmedia.co.jp/
当時は信号がなかったもの、電気はあり、ラジオはもちろん、テレビは白黒でしたがあったといいます。
電話はありましが、どの家にもあるものではなく、ある家に借りに行き、交換手を通して電話料金を教えてもらえたので、その都度料金を電話の持ち主に払っていたそうです。
「俺ら東京さいぐだ」は日本語ラップの元祖?
「俺ら東京さいぐだ」は歌だしから「テレビも無ェラジオも無ェ 自動車もそれほど走って無ェ ピアノも無ェ バーも無ェ」とリズムに乗せて連呼し、日本語ラップの元祖と言われています。
作詞・作曲は吉幾三さんで、ヒット曲に恵まれない頃にアメリカの移住した友人から送られたレコードでラップ音楽に触れ、インスパイアされ作った曲でだったそうです。
当初の仮タイトルは「離村者」で、複数のレコード会社に売り込むもすべて断れられ、最終的には千昌夫さんが数百万円で原盤権を吉さんから買い取り、千さんの支援で発売に至ったといいます。
発売から35年後の2019年9月に配信限定で新方言ラップ「TSUGARU」をリリースしました。
吉幾三の経歴
本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。血液型はB型。
父親は農業をしながら民謡歌手をしていた鎌田稲一さんと母親せるさんの間に9人兄弟の末っ子として誕生しました。
地元中学卒業後、父親の反対を押し切って歌手を目指して上京。
作詞・作曲家の米山正夫さんに師事し、1973年3月1日に山岡英二の芸名で『恋人は君ひとり』を発売し歌手デビュー。
アイドル歌手としてのデビューでしたが売れることはありませんでした。
1977年11月25日、吉 幾三と改名し自身で作詞・作曲した『俺はぜったい!プレスリー』がヒット。
その後、低迷期を経て、千昌夫さんプロデュースで1984年11月24日に発売した「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット。
1986年2月25日には本格的演歌の「雪國」が大ヒットし、以降は本格的な演歌歌手路線に変更しました。
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