ドラマ『家政婦は見た!』で長く主演を務めた市原悦子さんの学歴や経歴は?
女優デビューしたきっかけは?
結婚歴や夫、子供や死因は?
今回は女優の市原悦子さんをリサーチしてみました。
市原悦子の学歴・経歴
名前 市原悦子
生年月日 1936年1月24日
没年月日 2019年1月12日(82歳没)
出身 千葉県千葉市
身長 160cm
血液型 A型
所属 ワンダー・プロダクション
父親、母親、兄、妹の5人家族。父親は銀行員、母親は元小学校の教師でした。
小学校は四街道市立四街道小学校、中学校は千葉市立末広中学校を卒業。
子供のの頃は木登りをするようなお転婆で、からだを使って遊ぶことが好きでした。
戦争中には千葉県四街道市に疎開。9歳の時に終戦を迎え、中学校も四街道市の小学校に入学、その後、千葉市に戻り末広中学校を卒業しました。
中学時代は演劇部に入部しています。
運動神経は抜群で、学生の時には走り高跳び、マラソン、卓球、ソフトボールどたくさんのスポーツを経験。俳優の養成所時代の体操の先生には、
『3年でオリンピック選手にしてみせる』
と言わしめたほどに身体能力だったといいます。
高校は千葉第一高校に進学。
千葉県千葉市中央区葛城にある県立高校で、現在の千葉高校です。
現在の偏差値は75で、千葉県でトップを争う進学校。
高校時代も演劇部に所属。
高校卒業後は、早稲田大学・第二文学部に進学し演劇を専攻。
夜間部の第二文学部は現在は廃部になっています。
大学入学と同時に劇団俳優座養成所にも入所し、女優の道に進みました。
市原悦子が女優デビューしたきっかけ
市原悦子さんが中学時代に演劇部に入部したのは、好きだった先生が顧問だったからでした。
入部後、先生に演劇の楽しさを教わり、高校でも演劇部に入部。
高校時代に県の演劇でコンクールで、個人演劇賞を受賞したことで本格的に女優業に興味持ち、高校卒業後に劇団俳優座養成所に6期生として入所。
大山のぶ代さんは同期でした。
1957年、21歳の時に正式に俳優座に入団し、同年の舞台『りこうなお嫁さん』で女優デビューしました。
家政婦は見た!に25年間出演
デビューした1957年に、雑誌『新劇』の新人推賞を受賞。
1959年には芸術祭奨励賞、1963年には新劇演劇賞、1964年にはにゴールデン・アロー賞・新賞を受賞するなど、新劇女優として高い評価を受けました。
デビュー時から映画にも出演し、1960年代からはドラマにも出演し、1975年1月には『まんが日本昔ばなし』が放送開始。
俳優の常田富士男さんと2人だけで、すべての登場人物の声を演じ、人気アニメとなり1994年9月まで19年間放送されました。
代表作の『家政婦は見た!』(テレビ朝日)が放送されたのは1983年、47歳の時。
土曜ワイド劇場の2時間ドラマで放送されて、視聴率27.7%を獲得し、翌年の1984年10月の2作目は30.9%を記録。
1997年10月からは連続ドラマとして放送されました。
連続ドラマの最高視聴率は18.7%で1シーズンだけでしたが、その後も2時間ドラマとしては放送され、2008年7月までの25年間で、26作が放送されました。
1990年には映画『黒い雨』で、
第13回日本アカデミー賞・最優秀助演女優賞
1998年には映画『うなぎ』で、
第21回本アカデミー賞・優秀助演女優賞
を受賞しています。
市原悦子の結婚歴や夫、子供
市原悦子さんの結婚歴は1度。
1961年、25歳の時に、2歳年上で舞台演出家の塩見哲さんと結婚。
塩見哲さんとは俳優座養成所の同期でした。
妊娠はしましたが、2度の流産を経験し、子供には恵まれませんでした。
夫婦生活は53年に及び、2014年4月に夫の塩見さんは肺がんのために、80歳で死去しました。
市原悦子の死因
市原悦子さんが死去したの2019年1月12日。
死因は心不全で、82歳でした。
2018年12月下旬に盲腸で入院しましたが、手術は行わず投薬で治療を行い、2019年の正月は自宅で過ごしていましたが、1月5日に体調を崩し入院。
1週間後に都内の病院で亡くなりました。
遺作となったのは2017年公開の主演映画『しゃぼん玉』。
テレビドラマの遺作は、ファンの声に応える形で10ぶりに制作され、2017年5月に放送された『さよなら! おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト』(フジテレビ)でした。
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