神奈川県出身の女優・小山明子さん。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫は?
子供はいる?
今回は女優の小山明子さんをリサーチしてみました。
小山明子の学歴・生い立ち・経歴
名前 小山明子
生年月日 1935年1月27日
出身 神奈川県
身長 160cm
血液型 AB型
小学校・・鶴瀬国民小学校
中学校・・鶴見中学校
高校・・・鶴見高校
専門学校・大谷学園横浜ドレスメーカー女学院
千葉県生まれ。
4人の兄がいる5人兄弟の末っ子。
父親は会社員。
2歳の時に父親の仕事の関係で朝鮮に移り、3歳から東京に移りました。
小学校に入学した時に戦争が始り、空襲が激しくなると兄たちは集団疎開しましたが、小山明子さんは母親の実家のる大阪の池田市に1人で縁故疎開。
しかし、疎開先の近くに軍需工場があったため学校の帰りに機銃掃射され、友達と命からがら逃げたこともあったといいます。
その後、埼玉県鶴瀬村(現在の富士見市)に一家で疎開。
小学校は鶴瀬国民小学校に通いました。
中学時代は神奈川県横浜市に移り、鶴見中学校を卒業。
高校は鶴見高校を卒業。
鶴見高校は、神奈川県横浜市にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は58。
高校卒業後は大学には進学せず、ファッションデザイナーを目指して大谷学園横浜ドレスメーカー女学院(現在の横浜高等教育専門学校)に入学しました。
小山明子が女優になったきっかけは?
雑誌『家庭よみうり』の表紙に出たことがきっかけでスカウト
引用 https://wendy-net.com/
小山明子さんは横浜の洋裁学校に在学中に、雑誌『家庭よみうり』の表紙になったことがきっかけで松竹にスカウトされ、女優になりました。
父親は堅実な会社員だったこともあり、女優になることは大反対でしたが、スカウトした松竹に上層部の人が大学の大先輩だったために、しかたなく女優になることを承諾したといいます。
小山明子 女優デビュー後
小山明子さんは1955年3月公開の映画『ママ横をむいてて』で女優デビュー。
20歳の時のデビューでした。
1960年に松竹を退社しフリーとして活動。
同年にドラマデビューし、映画、ドラマの両方で活躍。
1969年7月公開の映画『少年』では第24回毎日映画コンクールで、
助演女優賞
を受賞しました。
小山明子の結婚歴や夫は?
小山明子さんが結婚したのは1960年。
25歳の時でした。
夫は映画監督の大島渚さん。
年齢は3歳年上。
大島渚さんは京都大学卒業後の1954年に松竹に入社。
助監督を務めた後、1959年公開の映画『愛と希望の街』で映画監督デビューしました。
1955年に松竹に女優として入社した小山明子さんとは1955年6月公開の映画『新婚白書』の撮影現場で知り合ったそうです。
小山明子さんは2作目の映画出演で、大島渚さんは助監督でした。
撮影期間中に交際に発展し、結婚までの5年間に360通に及んだラブレターで絆を深めたといいます。
大島渚さんが1960年10月に日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を公開しましたが、同作は公開から4日後、松竹によって大島渚さんに無断で上映を打ち切られ、これに猛抗議し大島渚さんは松竹を退社。
小山明子さんも同じく退社しました。
小山明子さんは結婚後は女優を辞めて家庭に入ることが夢だったそうですが、結婚と同時に『夫が無職』という状態になったため、女優を続けたといいます。
その後、大島渚さんは映画監督として評価され、1978年には映画『愛の亡霊』で、
カンヌ国際映画祭・監督賞
を受賞。
夫の大島渚さんは2013年1月に肺がんで亡くなっています。
小山明子に子供はいる?
小山明子さんの子供は2人。
子供は2人とも息子です。
長男の武(たけし)さんが1963年
次男の新(あらた)さんが1969年
に誕生しました。
長男の大島武さんは経営学者で、東京工芸大学芸術学部教授を務めています。
次男の大島新さんは1995年フジテレビ入社、ドキュメンタリー番組のディレクターを務め、1999年に社内でドキュメンタリー番組を作ることが難しくなり退社。
その後はフリーになり、2007年に監督を務めたドキュメンタリー映画『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』は第17回日本映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞を受賞しました。
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